山辺田遺跡と山辺田窯跡の関係は、今さら示すまでもないかもしれませんが、有田の外から移住してきた人々が山辺田遺跡の場所に居を構え、そこに工房を併設するとともに、隣接する丘陵に本焼き用の登り窯である山辺田窯跡を築いて、窯場として開拓したものです。
そのため、山辺田遺跡と山辺田窯跡の成立時期は共通しており、一連の生産工程のサイクルの中で使用された施設であるため、出土する資料も大半は共通しています。ただ、それぞれ担った生産の工程が異なるため、たとえば、上絵焼成を行った山辺田遺跡では色絵磁器も多数出土しますが、本焼き窯である山辺田窯跡では、原則として、色絵素地までしか出土しません。また、山辺田遺跡は工房であるとともに人々が暮らした空間であるため、陶磁器類でも自前で生産していないものについては、他地域の製品が持ち込まれて使用されていました。
山辺田窯跡や遺跡の成立時期は、1600年代と推測され、当初は陶器のみが生産されていました。しかし、1610年代に有田で磁器が開発されると、この山辺田の窯場でもほどなく、従来の陶器と併焼されるようになったものと推測されます。
山辺田窯跡の陶器専焼期の製品の一つの特徴は、写真のような口径が30cmを超えるような大皿類が比較的多いことです。有田の窯跡の大皿は、口径が20cm後半代程度が一般的で、30cmを超えるものが多い窯場は、ほかには小溝上窯跡くらいです。おそらく、こうした陶器の大皿生産の技術が、後に磁器の大皿生産に繋がっていくものと推測され、1630年代以前の磁器大皿の中核的な窯場は小溝窯跡、それに続く1630~50年代の窯場が山辺田窯跡でした。
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胎土目積みの鉄絵陶器大皿 |
写真の陶器大皿は、平成25年度調査の出土品です。内面に葦(あし)文かと思われる草文が二方向に配されていますが、有田の陶器皿では口縁部のみに簡素な文様を描くものが一般的で、底面にまで及ぶないしは底面に施文するのは、陶器専焼期では、やはりほかには小溝上窯跡や原明窯跡くらいしか例がありません。
高台の畳付に4か所胎土目がそのまま残っており、内面にも2つの胎土目と2か所の痕跡が残りますので、登り窯内で重ね焼きされたことが分かります。この胎土目は畳付の真下に置かれていますが、この配置には地域性があり、畳付の真下に置くことは、有田の窯場の製品としてはそれほど一般的ではありません。相対的に胎土目積みの中でも古い段階の製品に見られるもので、通常有田の胎土目は、畳付から高台の外の付け根側に少しずらして配置するのが一般的です。(村)H28.8.5