9月も半ばをすぎようとしています。館の周囲には彼岸花が咲き始め、秋の気配を感じるころとなりました。
ところで、前々回の「泉山日録」で紹介した中島浩氣さんですが、先日、葉山の雪竹欽哉さんからご兄弟が保管されていたものをとりまとめて、浩氣さんに関する資料をご寄贈・送付していただきました。
中に「駄句り集」という表題がある自筆の句集があり、その中に浩氣さんが18,9歳ころから俳句を始めたこと、旧宅に近いところに稲荷社があり桜の名所であったことから桜渓という号をつけたこと、その後、有田の俳句結社である土曜会に参加したとありました。また、昭和19年ごろ、東京でそれまで詠んだ句をまとめ、その時点で3万2千句ほどあったが、翌年5月25日の空襲で一切が焼失したけれど、掲載された古い俳誌や友人の尽力と自身の記憶により5500余句をまとめたものとありました。このほか、表紙裏に「この巻の絵は孫たちのもとめにまかせその道も知らぬ八十の祖父がはばかりもなく描きなくりしものなれば、かりそめにも人に見せるものにはあらず」と但書を残された動物などの絵や、まさに百科事典の様相を呈した手作りの和綴じの本、さらには文章を書くにあたって参考にされたであろう辞書などなど。これらから博覧強記の浩氣さんの姿を垣間見ることができます。
この辞書については雪竹欽哉さんの母であり浩氣さんの長女であった雪竹多枝子さんが、生前次のように語っています。「執筆の間手放さなかった辞書はバラバラになってしまい、2冊に分けて製本し直してもらい、引き続き使っていた」と。文字通り「韋編三たび絶つ」を実践された浩氣さんを偲ばせる資料の数々です。
この資料の中には稗古場の観音山千畳敷で行った句会のこと、「ふくべの駒ごと」には上幸平の飴屋があって店先には飴やおこしを並べていたこと(恐らく藤助おこしのことか)など昔日の有田を偲ばせる文章が点在しています。まだ目録作りが終った段階ですが、さらに調査を進め、今秋の企画展でも紹介したいと思っています。(尾)H28.9.13