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有田の陶磁史(227)

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  前回は、“鍋島様式”と言えば、厳密に言えば製品のスタイル名ですから「製品スタイル上の鍋島」のことですが、一般的にはよく御道具山(藩窯)製品、つまり「生産制度上の鍋島」という意味もゴチャゴチャに混ぜて使われてますって話をしてました。もっとも、これは“鍋島様式”に限ったことではないんですけどね。“古伊万里様式”の場合も、今でも時々“古伊万里”、すなわち肥前民窯の意味で使われますし、“初期伊万里様式”に至ってはむしろ初期の伊万里、“初期伊万里”の意味で使うことの方が多いですから。だから、要はどういう意味で使ってるのか、そのあたりを頭の中でしっかり仕分けしておくことが必要なんです。めんでくさいですね。

 ただ、“鍋島様式”の場合は、多くはゴチャゴチャにしても実害はありませんので、2つの意味を意識してあえて使う分にはさほど問題はないかもしれません。ところが、いつ何時でもそうだというわけではないので、一応頭の中では仕切りが必要なわけです。

 たとえば、“鍋島様式”の製品を生産したことでよく知られる窯に大川内山の鍋島藩窯跡(伊万里市)があります。おそらく1660年代に開窯して、以後ずっと近世の間は御用品が焼かれた窯場です。ただし、よく誤解されてますが、この窯場では御用品ばかりが焼かれたわけではありません。だって記録によれば、焼成室が33もあった登り窯ですよ。全部贈答用ばかり焼いたら、世の中“鍋島”だらけになってしまいますよ。

 だから、この中で御用品を焼いたのは真ん中の3室(2室ともいう)だけで、残りは16人の御手伝い窯焼きによって一般の製品を焼く“御助け窯”というものでした。ちなみに御手伝い窯焼きのうち、レギュラーである本焚き手は10名で、残り6名は助焚き手という、いわばベンチスタートの窯焼きでした。だから、レギュラー一人あたり3室割当って感じでしょうか。「うそっー!」って言われそうですが、ご期待に沿えない情報をもう一つ。それは、大川内山も皿山代官の管轄下にある有田皿山に属す山なんですが、実は、山の位置付けとしては、有田では広瀬山や応法山などと同等の最下級品を焼いた山なんです。「うっそっー!」でしょ。でも、事実です。最下級品を焼く山の中で、一部最高級の御用品を焼いたということです。

 “鍋島”については、後ほど詳しく説明する機会もあると思いますので、ここではさわりだけにしときますが、一番上のランクと一番下を組み合わせるのは多大なメリットがあるんです。というのは、技術や技法というものは、近くに置いとくと、意識・無意識に関わらず混じります。レベルが近いほどそうです。でも、今のように煙突でも立てれば別ですが、当時は短い窯で焼く技術がありませんので、御用品だけの3室の登り窯を造るわけにもいきません。3室の登り窯じゃ熱が窯尻まで引きませんので。だったら、何か別の工夫が必要です。それが一番上と一番下を組み合わせる方法なのです。真ん中がスッポリ抜けてるので、あまりに違い過ぎて技術・技法が混じらないという寸法です。ついでに、御道具は皿が主体ですが、お助け窯の製品は碗が主体というように生産器種まで変えてます。

 ということで、今日は「生産制度上の鍋島」と「製品スタイル上の鍋島」は切り分けないといけないという実例をお話する予定でしたが、そこまでいきませんでした。次回こそはその話をしますのでご容赦ください。(村)

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