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深海(橋口)三次郎さん

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長いこと有田町、有田焼の歴史に関する仕事をしておりますが、年月ばかりが過ぎていき、まだまだ解明できていないことがたくさんあります。

その中で、板谷波山(1872~1963)という、陶芸家では初の文化勲章を受賞された方がいますが、波山が32歳の時、東京で工房を開き作陶活動をはじめたころに、ろくろ成形を担当したのが有田出身の深海三次郎であり、明治37年(1903)から同43年(1910)の間、ろくろ師であったということが、板谷波山記念館のHPに掲載されています。

一昨年末に、町内の香蘭社を通じてこの深海さんの有田時代のことを知らないかという問い合わせが横浜の方からありました。そこは困った時の浩氣さん頼みで、「肥前陶磁史考」には深海家の系図に中に「虎三郎の三男」として三次郎さんの名前がありました。橋口家に養子に行かれたとのことで、同じく「肥前陶磁史考」には大正14年(1925)3月20日に61歳で亡くなったとありました。その人物像として「泉山の窯焼きにて、宗傳の傍系深海虎三郎の三男である。嘗て有田工業学校の教師たりしが、後年東京高等工業学校又は支那福建省工業学校に教鞭を執りしことがあった」ともあります。
また、明治35年(1902)、ロシアのウラジオストック近隣のガンゴーザに於いて、製陶を起業するということで、有田から窯方及び細工人として泉山の江上房五郎さんや橋口(深海)三次郎さん、岩谷川内の中島政助さんと絵かき職人として大樽の牛島定七さん、窯積みには泉山の諸岡國太郎さん、事務員として赤絵町の今泉茂左衛門さんらが渡航したとあります。実はこの折の製品は町内の江原家より当館に寄贈(写真)されていますが、この事業は日露国交があやしくなってきたということで、翌36年(1903)の11月には全員が引き上げてきたということでした。
ということであれば、深海(橋口)三次郎さんはロシアから帰国後に上京し、板谷波山の窯でろくろを担当したということになります。そして波山のもとを去ったあとに、東京高等工業学校や支那福建省工業学校で教えたのでしょうか。

先日の日曜日、お問い合わせいただいた橋口さんご夫妻が横浜から来館され、曽祖父にあたる三次郎さんのお写真を持参いただきました。明治期の窯焼きで細工人としても名高い深海平左衛門・墨之助、竹治親子の写真は現在においても不明ですが、深海宗傳の流れをくむ三次郎さん(かなりのイケメンです!)を拝見しながら、同じDNAを持つ深海一族ということで、明治期の有田に思いを馳せたところです。橋口さんからはご子孫でないとわからない部分や調べた結果を後日お知らせいただけるということでしたので、新たな史実がわかってくるのではないかと期待しています。(尾)H28.10.4

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明治39年5月 東京高工創立25年記念写真
(2列目右端が三次郎さん)
橋口彰人さん提供

明治38年東京府田端にて(左側が三次郎さん)
このころ板谷波山窯で製陶していた
橋口彰人さん提供

  
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                     ロシア・ガンゴーザでの製品(江原家寄贈)

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