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新しい資料

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先週、日本工芸会総裁の眞子内親王をお迎えして400年式典が無事終了しました。事務局の皆様はじめ、関係者のお骨折りは如何ばかりだったかと拝察しております。お疲れが出ませんよう。

ところで、有田焼創業から400年、有田皿山が形成されてほぼ同じ時間が経過しているわけですが、この間、いろんな人々が有田を訪れています。そのお一人に平戸藩士の奥嶋六郎太夫景就という方がいて貴重な記録を残されています。この資料に関しては多久古文書の村の大園村長からご教示いただき、その後、原本を拝見するために佐世保市に赴きました。現在、真言宗・岩問山東漸寺のご住職をつとめられているご子孫の奥島正就さんは、代々貴重な資料ということで大事に保管されてきましたが、「古文書の字体が読めないままだったけれど佐世保市の郷土史会の皆様などが翻刻されました」と、この資料が多くの方に活用されることを殊のほかお喜びでした。

この資料は享和2年(1802)8月に六郎太夫さんが剣術・鑓術の修行に熊本へ赴いた折の旅日記「南遊記行」です。同月27日に平戸を出立し、早岐を経て31日、晦日に「はりやけ(原明)」の関所を通過して有田に入っています。

「有田といふ処にいつ、ここハ多く焼物をつくる処にて家毎に業(わざ)を遣り道脇に焼物をやく釜いくらも見ゆ、陶器(やきもの)ハ日本にても此有田と我早岐にて作るを第一の妙工とするとそ、町を少し過て陶器に作れる土を取る処あり、白土山ニ而道脇近く見ゆる也」と点在する登り窯や石場の様子を文字にて記し、また絵も得意だったようで、当時の石場の様子を描いています。今から200年前、文政の大火以前の皿山の様子を記した貴重な資料です。

okushima

佐世保市中里町 東漸寺(奥島家)
※寛和2年(986)の創建といわれ、平戸藩主は参勤交代時に江戸へ向かう際、中里の本陣に宿泊し、ここ東漸寺で旅の安全を祈願された。境内には樹齢600年余といわれる大楠がある。

石場に関してはこのほかにも、嘉永3年(1850)に熊本の歌人・中島廣足さんが「佐嘉日記」に、また唐津の平松儀右衛門ご一行様が元治2年(1865)に長崎への旅の途中に立ち寄って石場のことを記しています。これらの資料は佐賀藩にとっては宝の山であった当時の石場の様子を鮮明に今に伝えてくれます。

今回の企画展でも原本ではありませんが、六郎太夫さんの石場の絵は写真でご紹介したいと思いますのでご期待ください。(尾)H28.10.25

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