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山辺田遺跡の出土品(17)

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今回は、山辺田遺跡の遺構から出土した、2点の染付磁器をご紹介します。

発掘調査は地面の下を掘ってかつての人々の痕跡を探るため、当然のことながら、通常は地面の掘削を伴う構築物は発見されますが、地面の上に築かれたものはほとんど残っていません。そのため、一つの人為的な構築物の場合も、地面の下の部分だけが残り、地面の上に飛び出した部分は削平されていることが一般的で、残った地面の下の痕跡から、上部の構造を推測する必要があります。

こうした地面の下に掘られた穴状の遺構(遺存した構築物)を、考古学ではよく土壙やピットなどと総称します。特に細かな基準はありませんが、通常、柱穴などの径や幅の小さいものをピット、大きめのものを土壙と称しています。

ピットや土壙の性格はさまざまですが、よく発見される土壙の一つに、地面に穴を掘って、その中に何らかの理由で不要となったものをまとめて捨てている廃棄土壙と呼んでいるものがあります。山辺田遺跡でも多く発見されており、そうした土壙では、陶磁器片が多量に出土することも珍しくありません。また、もちろん長く使用した後に廃棄されるものもありますが、一括して廃棄されるという性格上や特に工房などの生産関係の遺跡の場合は、出土した陶磁片の生産年代が比較的短期間である場合が多いのも特徴です。

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1)「寛永拾八年」銘染付瓶

 
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   2)染付双龍宝珠文小皿(山辺田遺跡)

 

写真No.1・2は、そうした土壙の一つから出土したものの一部で、この土壙からは比較的多くの陶磁片が出土しています。No.1の写真は染付の瓶で、胴部の両側面に耳の付く口縁部の開く形状をしています。注目すべき点は、体部に文字が記されることで、片面に「寛永拾八年」「有田□」「三月」、一方には「九州 肥前」の文字が見えます。つまりこの瓶は、寛永18年、西暦では1641年に作られたことが分かります。

詳しくは省きますが、この紀年銘資料や発掘の状況から、検出土壙の構築年代は寛永18年3月以降、それほど隔たらない時期と推測されます。よって、土壙の中に廃棄されていた陶磁片の生産年代も、寛永18年の前後数年程度のものである可能性が高いだろうと思います。

写真No.2は、寛永18年銘の染付瓶と共伴する染付小皿で、様式的には、いわゆる「初期伊万里」と称されるタイプです。外面は無文ですが、内面には、何だか分かるような分からないような、ラフな文様が描かれています。もっとも、周囲に2方向に描かれた細長い文様は、よく見れば龍の文様だと分かると思います。さらに龍と龍の間には雲文が配されています。たぶん“?”なのが見込みの中央部に描かれた丸っぽい文様だと思いますが、これは先端の尖る宝珠文を描いたもので、互いに宝珠に戯れる龍の姿を描いた構図です。

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3)青花双竜戯珠盤(漳州窯・秀篆窯跡) 福建省博物館『漳州窯』福建人民出版社 1997 より転載

実は、この文様の元は中国磁器にあり、たとえば写真No.3は中国・福建省の漳州窯の秀篆窯跡から出土している同じ構図を描いた青花(染付)小皿です。ただ、山辺田遺跡のものとどちらがそれらしく見えるかといえば、どっちもどっちというか、むしろ山辺田遺跡の方がそれっぽくも見えます。おそらく山辺田遺跡の製品も、きっちりと描かれた中国磁器を手本としたものではなく、秀篆窯跡の製品ほどではなくとも、すでに文様の崩れたものを摸したものと思われます。

1630年代以前には、中国磁器を個々の文様だけではなく構図ごと模倣したものはまれですが、このように1640年代前後になると構図ごと引用したものも比較的多く見られるようになります。(村)H28.11.11

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