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有田の陶磁史(229)

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 前回もなかなか話は進みませんでしたね。まあ、 気の赴くままに書いてますので、お許しください。さて、鍋島藩窯跡には贈答用のタイプには間違いないけど、“鍋島様式”じゃないものも、たまにはあるって話をしてました。つまり、「生産制度上の鍋島」ではあっても、「製品スタイル上の鍋島」ではないということです。だからこういうものは、本来“鍋島”っていう場合には含まれても、“鍋島様式”って括りの場合には、原理上は含めてはいけないということになります。ということで、今日は逆の例をご紹介します。

『皿山代官旧記覚書』の天明7年(1787)の日記にあるのですが、佐賀藩庁から支藩の蓮池藩に対して、蓮池領の志田山(嬉野市)で大川内焼と同じ物を焼いて商売している者がいるので止めんかいと申し入れている記述があります。大川内焼と同じ物とは当然“鍋島様式”の製品ということでしょうね。商売してるってくらいですから、一般の販売ルートに乗せてるんでしょう。つまり贈答用ではないってことです。だから、これって「製品スタイル上の鍋島」ではあっても「生産制度上の鍋島」とは違いますよね。これがもし伝世していたとすれば、ほんまもんの大川内山の“鍋島”と見分けがつくんでしょうかね?実物がどんなものか分かりませんので、何とも言えませんが…。

 続いて、有田の実物の例もご紹介します。有田の南川原山の樋口窯跡や南川原窯ノ辻窯跡では、高い高台に塗り潰しの櫛目文を配した、スタイル的には“鍋島様式”の染付皿が出土しています。

 江戸時代には、本当に生活のこまごました部分まで、あれするなこれするな、ああしろこうしろって皿山代官所などからくり返し指示が出されてるのですが、それはとりもなおさず、破る人がいるからです。実際に、調べてみても、衣食住をはじめ生活全般に渡って、まあ、よくもこんなに決まりばっか作るよな~って感じる一方、それにしても、よく破るよな~とも思いますから。いくら五人組のような、ある面相互監視的な制度もあったとはいえ、治める側の皿山代官所の役人はわずか20人くらいですからね。目が届くはずもありません。

 それに、御道具山の職人も、結局、時々の上手な人を有田から雇っているわけですから、“鍋島様式”の製品を作ること自体は、技術的には何の造作もないことなわけです。

 そう言えば、前々回もご紹介した“鍋島様式”の染付皿がありますが(Photo)、実はこれって中樽一丁目遺跡の窯焼きの工房跡から出土したものなんです。たしか同じものが4個体あったと思います。窯跡の出土品じゃないので、大川内山の製品ではないとは断定できませんが、内面の文様が独特で、これまで鍋島藩窯跡でも類例がありませんし、伝世品でも見たことがありません。描き方は鍋島風ではあるんですが、文様自体は、同時代の民窯製品では時々使われているものです。窯焼きにわざわざ御用品の“鍋島”を与える必然性もありませんので、あるいはインチキしたやつかもしれませんね。この遺跡では、ほかに江戸後期の“鍋島様式”の大皿も出土していますし。つまり、もしこれが有田製ならば、こうしたものは「製品スタイル上の鍋島」ではあっても、「生産制度上の鍋島」ではないということです。

 いかがですか。いくつか例を示しましたが、必ずしも「鍋島様式」じゃないから御用品の「鍋島」でないとも言えないし、逆に「鍋島様式」だから必ずしも御用品だとも言えないのです。

 今まで、様式にまつわる数々の問題点を見てきましたが、やっぱり順々に様式が変化するという一列配置では難しそうです。では、この様式をどう再配置すれば、発掘資料なども含めて、あまり矛盾なくすることができるんでしょうか。次回からは、それについてちょっとお話してみたいと思います。(村)

鍋島様式の染付皿

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