今回は、山辺田遺跡から出土した、ほぼ同じ文様を描いた3枚の染付小皿をご紹介します。
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染付獅子文小皿(山辺田遺跡) | |
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染付獅子文小皿(山辺田遺跡) | |
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染付獅子文小皿(山辺田遺跡) | |
それぞれの内面には、見込みにたぶん猿にしか見えないとは思いますが、何とかむりやりにでも2頭の獅子だと思っていただきたい玉取獅子らしき文様を描いており、口縁部にはそれぞれ同様にハート繋ぎの文様が迴らされています。こうした猿顔の獅子は山辺田の窯場に限らず、同様な時期には有田の窯場では散見されます。3枚とも手描きですので、まったく同じとはいきませんが、ご覧のとおり筆致もよく似ており、No.3は焼きがあまくやや酸化ぎみの色調ですが、同じ分類の皿として括っても違和感のないものです。No.2と3は口縁部を輪花状にしていますが、おそらく内面だけ見れば、まさか時期差があるものとは思えないのではないでしょうか。
一方、外面に目を向けると、がらりと印象が変わります。写真No.1の外面は、染付は胴部に廻らした圏線のみで、高台幅はかなり小さく、典型的ないわゆる初期伊万里らしい高台作りです。ところが、写真No.2は元となった中国磁器を摸して外面の口縁部や胴部に圏線や文様が描かれ、高台幅はNo.1と比べるといくらか広くなっています。さらに、No.3になると口縁部や胴部に施文されることはともかく、高台幅がほかよりずっと広く、畳付の処理もかなり丁寧です。
いかがでしょうか。内面だけを見ると同時期に見えたはずが、外面に目を移すとNo.1、2、3の順に段々新しそうな気がしてきたのではないでしょうか。ただ、まったく同時期に作られたものかどうかは別として、内面の類似性がこれだけ高いと、やはりそれほど時期差のあるものとも思えません。
実はこの3枚ともに、前回ご紹介した寛永18年(1641)銘の染付瓶と同じ土壙から出土したものです。ということは、いくらか時期差はあるのかもしれませんが、素直に考えれば寛永18年の前後数年程度の間の製品の可能性は高くなります。もっとも、少なくともNo.3の高台作りは同時期の初期伊万里の技術とは異なりますので、やはり遅くとも1640年代中頃には古九谷様式の技術が成立していた可能性を考えなければなりません。
伝世品の研究などでは、製品は時系列とともに徐々に変化するという仮定のもとに、形式学がよく用いられます。もちろん考古資料も形式学に頼ることは例外ではないのですが、窯跡をはじめとする生産地の遺跡の資料では、現実的には、出土状況が形式学どおりにいかないこともしばしばです。形式的には確実に新旧の付く製品が同時に焼成されていたり、実際には形式の新しいものが古かったりすることすら珍しくありません。(村)H28.11.18