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山辺田遺跡の出土品(24)

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山辺田遺跡は山辺田窯跡に関わる工房跡であるため、その成立は窯跡と同じ1600年代頃と考えられます。当初は陶器のみが生産されていましたが、1610年代には磁器も併焼されるようになったと推測されます。そして、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合を契機として磁器専業体制へと移行し、その後1640年代中頃には、日本でも最初期の色絵磁器の生産がはじまりました。

本日ご紹介するのは、その色絵磁器を焼成した赤絵窯の壁の破片で、遺跡の中でも特定の場所に偏って、多量に出土しています。山辺田の登り窯で本焼きした色絵素地は、工房のある山辺田遺跡に持ち帰られ、上絵付けが施されます。そして、工房内に設けられた赤絵窯で再び焼くことによって、色絵磁器は完成します。

写真1a_1写真1b_1

         写真1a  移築赤絵窯(有田町歴史民俗資料館)

〔正面〕

写真1b  同〔上面〕

写真1は、もともと町内の岩谷川内地区に残っていたものを、有田町歴史民俗資料館に移築・復元した近代の赤絵窯です。現代の赤絵窯は電気窯が一般的なようですが、それ以前は薪を燃料とする窯でした。円筒形の窯本体の一方に焚き口が突きだしているような形状をしており、日本ではすでに古代から土器や素焼き用の窯として同様な構造のものが使われていました。ただし、この素焼き窯と赤絵窯には決定的な違いがあり、赤絵窯の場合には、円筒形の窯の内側に入れ子状にもう一つの窯が配置されています。この外側の窯を外窯、内側の窯は内窯と呼ばれています。外窯の横の焚き口から投げ込まれた薪は、内窯の底の部分で燃え、その熱や炎は外窯と内窯の間を通って窯の上の方に抜ける構造になっています。このように二重構造にすることによって、中に詰めた製品に直接炎が当たることがないようになっているのです。

ただし、復元窯の場合、外窯を構築後、その内側に瓦状の粘土板を張り合わせて内窯が造られています。つまり、外窯と内窯は一体化しており、あえて外窯、内窯と、別の窯として呼ぶほどの意味はありません。おそらく、こうした外窯と内窯を一体化して造る構造の赤絵窯は、17世紀末~18世紀はじめ頃にはじまったものと推測されます。ところが、山辺田遺跡などで出土する赤絵窯の場合は、おそらく外窯の構造自体は変わりませんが、内窯が取り外せるようになっていました。

写真2a_1写真2b_1
写真2a 山辺田遺跡出土赤絵窯片〔外面〕写真2b 同〔内面〕

写真2は右端の1点は外窯の破片で、左側の4点が内窯です。内窯は素焼きの甕状の形をしており、粘土紐を巻き上げて造られています。左上が底に近い部分、左下が胴部、中央下が口縁部で、上下逆に写っていますが、中央上の写真が内窯の蓋になります。

有田の色絵磁器は、1640年代中頃に中国の景徳鎮系の技術導入によってはじまりました。そのため、赤絵窯も当初は中国と類似したものが使われたのではないかと思っていました。しかし、昭和63年に発掘調査した赤絵町遺跡(有田郵便局の地点)で、赤絵屋跡から大量に内窯の破片が出土しました。ただ、この時はまだ赤絵窯の破片であることが分かりませんでしたが、平成13年に調査した幸平遺跡(上有田駐在署の地点)でも赤絵屋跡が発見され、同様な遺物が多く出土したことから、赤絵窯の破片であることが判明しました。その後、山辺田遺跡の出土遺物などを加味して外窯の構造について検討を行った結果、古来より日本国内で使用されていた素焼き窯に、取り外し可能な内窯を加えたものが当初の赤絵窯であったことが判明したのです。ただし、1640年代中頃~50年代に使われた山辺田遺跡と1650年代中頃に成立した赤絵町遺跡や幸平遺跡の赤絵窯では、用いられている部材の種類に多少の違いがあります。そのため、少し構造の変化があった可能性はありますが、現在のところ、まだ詳細は明らかになっていません。(村)H29.1.27

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