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ウィーン万博の写真

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先日、九州陶磁文化館館長よりご紹介いただき、『明治初期日本の原風景と謎の少年写真家』という本を読みました。この本にはオーストリア人のミヒャエル・モーザーという当時16歳であった少年が写真家の助手として1868年(明治元)10月18日にイタリア・トリエステ港を出航後、途中喜望峰や上海での長期滞在を含めアジアや上海を経由して1869年(明治2)9月4日に長崎港に到着し、日本での暮らしや通弁(通訳)としてウィーン万博とフィラデルフィア万博に同行したことなどが紹介されています。

下記の写真は皆様もよくご覧になったことがあるかと思いますが、日本からウィーン万博に参加した人々で26人が写った集合写真です。この万博には記録によれば外国人6人を含めて副総裁の佐野常民など72人が渡欧しています(ちなみに総裁であった大隈重信は渡欧しませんでした)。写真は下部に記された文字によって、ウィーンで1874年1月1日に撮影されたことがわかります。

また、有田にも深い関わりのあるワグネルがお雇い外国人として副総裁の佐野常民の左に座っていることもよく知られていますが、ナンと前述のモーザーもこの中にいました。後列の左から2人目です。その右隣が有田からの参加者・川原忠次郎です。『墺國博覧会参同記要』には「売店通弁 墺國人 モゾロ」とありますので、このモーザーが正式な参加者として記録されています。『明治初期日本の原風景と謎の少年写真家』にはこの写真が撮影された経緯として、1874年(明治7)の1月にウィーンに駐在していた公使の佐野常民は、ウィーンあるいはその近郊に滞在していた日本の万博事務局員の一行を迎え、ウィーンの写真館「アデーレ」で集合写真を撮ったと記しています。1874年の元旦ということで、佐野は万博の参加者に「お正月だし、記念に写真を撮ろうじゃないか」と呼びかけたのでしょうか。

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                                (有田町歴史民俗資料館蔵)

万博は前年の11月2日に閉会していましたが、日本の多くの万博関係者はオーストリア近郊にそのまま留まり、伝修生として西洋の様々な分野の進んだ技術を学んでいました。佐賀出身の納富介次郎(写真は前列右側)や川原もそれぞれ陶画や製陶に通じているというので、ボヘミアのエルボーゲン製造所で研究を重ね、「ギブス」模型、つまり石膏型の製法を習得しました。ちなみにモーザーはイタリアで半年間、写真技術を学んでいます。

22歳のモーザーと26歳の川原が隣り合って写っているということは、年も近いし、二人の間に何らかの会話があったことは容易に想像できます。それに関する記録がないのが残念ですが、一枚の写真は寡黙ながらも多くの事柄を今に伝えています。(尾)H29.2.14

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