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有田の厠(トイレ)考

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先日、町屋で昔話を聞く会を開催している時のことです。途中でトイレに行きたいという子が何人かいました。でも、今回新装なった異人館の内部にはトイレは設置されていませんので、すぐ近くの有田館を利用してもらいましたが、4月からの一般公開以降にご来館の方はどうぞご心配なく。現在、隣に元々あった蔵を建設中で、そこにトイレを設置する予定です。なぜ、こういうことになったかといえば、修復事業中、設計監理者によって以前の建物の痕跡を慎重に調べながら工事が行われましたが、どうも建物内にはトイレがなかったとのこと。

そこで、ちょっと気になって幕末から明治期の有田のトイレ事情を調べてみました。現在の所、有田皿山に関して厠(トイレ)のことが出てくる最も古い記録は、「皿山代官旧記覚書」の明和3年(1766)の記録に代官所の“雪隠”がありますが、さらにその百年後の元治2年(1865)3月に唐津の材木商・平松儀右衛門さんご一行が長崎のおくんちを見学しようと唐津を出立し、伊万里を経て有田に到着し、有田では「御高札のうら手」にあった永楽屋という宿に泊まり、その折に次のような記録を残しています。

永楽屋永吉の二階の厠をおもひ出して
    二階から一ツ一ツに谺して臍の緒切てくそ嗅くなし

つまり、この永楽屋には2階に厠があったことがわかります。ただ、恐らくこの時代はいわゆるポッチャントイレ、汲み取り式が一般的であったでしょうし、臭いはどうしてもつきものだったと思われます。それが2階にあった厠からブツが落ちるたびにその音がこだましてはいたものの、臭いがしなかったことが平松さんにとっては珍しく、記録に留めたものと思います。しかもそれを短歌にするとは、なんと粋な御仁でしょう!ちなみに永楽屋は明治以降も存在していたようで、明治10年(1877)に有田を訪れていた長崎・千々石の人・橘常葉さんの日記には宿料59銭と記しています。

また、町内の発掘調査を担当している(村)から聞いた話では、建物跡から半分ほど埋め込まれたそう大きくはない甕が出土しており、これが厠ではないかと。さらに不思議なことに中身が残っていたら臭いも残っているのだそうです。

明治初期から中期にかけて、横浜または神戸に来航した外国人のトイレは、その都度始末するようになっていたそうです。上板の中央に丸穴を穿ち,トイレの外部から便瓶を差込み,用便の都度防臭剤を散布するのみで,汚物は毎日夜間に居留地消防隊内衛生部の人夫が来て処理していたと伝わっています。かのベルサイユ宮殿のトイレ事情はあまりにも有名ですが、江戸期の輸出用有田焼の中にはその時のための「おまる」も作られています。

人間の営みは普遍的なもので、食べたものは排泄することが当たり前ですが、異人館の前には田代家の本家がありましたから、来客の折には食事を本家で作って運び、トイレはもしかすると移動式のおまるの形状ではなかったかと想像していますが、如何でしょうか。

sakurasou1

れきみん応援団の中尾さんに持参いただいたサクラソウ。

                                   一足早く春の装いが整いました。

(尾)H29.2.28

 

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