過日、有田窯業大学校が新しく佐賀大学・有田キャンパスとなり、その門柱除幕式がおこなわれ参列しました。昭和60年(1985)に佐賀県立有田窯業大学校として開校し、今回新たに佐賀大学有田キャンパスとしての門出となりました。有田焼創業400年を契機に佐賀県から国立大学法人へ移管されたのですが、これは全国的に見ても初めてのケースだそうです。
この有田で窯業教育の芽生えは明治14年(1881)に開校した有田小学校校長の江越礼太先生による勉脩学舎でした。当初、陶器工芸学校としての設立が計画されました。今をさかのぼること136年前です。それ以前、また恐らくその後もしばらくは「教育」という形ではなく、職人の育成、技の伝承というのは先輩の細工人や絵書き職人の下で修業を積むという徒弟制度が生きていたと思います。それが江戸や長崎で新しい時代の風を感じていた江越礼太先生には少し物足りなかったのかもしれません。ただ、徒弟制度というものは必ずしもマイナス面だけではなかったのかもしれないと思ったのは、4月22日(土曜日)付けの朝日新聞に、展示品のみならず、日本庭園のすばらしさで定評のある島根県の足立美術館庭園部長小林伸彦さんのコメントを読んでからでした。そこには技をどのように習得したかという問いに「先輩は手取り足取り教えてくれず、見て盗むしありませんでした」と。すると、指示待ちではなく自分の頭で物を考え、手も自然に素早く動くようになり、何より観察眼が養われたとコメントされていました。学ぶこと、技術を身につけることがどういう意味を持つのか、考えさせられる記事でした。
明治5年に公布された「学制」によっても、小学校にも通う子どもの数は少なかった時代、有田では小学校卒業後に通う勉脩学舎が計画されました。開校前の明治10年(1877)にはすでに子どもたちに焼き物作りに取り組ませた形跡が、有田小学校百周年記念館に所蔵されている明治10年の内国勧業博覧会褒賞からうかがい知ることができます。この褒賞は「鳳紋褒賞」で、大鉢合作書画・文房具白墨を作品した江越礼太外二名に対して贈られています。そこには次のように記されています。「小学生徒ニ書画其他ノ美術製品ヲナサシメタルモノ概シテ凡ナラス産陶ノ地ニ少年ヲ教誘シテ工技ニ習ハシムル注意ノ基厚キヲ賞ス」。作品がどのようなものであったかはよくわかりませんが、合作とあるのは子どもたちとともに、あるいは率先して先生方が作り上げた作品への授与だったようです。
ところで、この江越先生ですが現在、有田小学校の校長室に肖像画が残っています。額縁を含めた高さ131cm、同じく幅103cmという大きな絵です。先生の写真は明治2年(1869)に長崎で撮影されたものがありますが(館報No.,47参照)、有田小学校の絵は晩年のお姿だと思われます。当時は写真でこれほど大きく伸ばす技術はなかったのかもしれませんが、明治28年(1895)に亡くなった後、江越先生の薫陶を受けた同僚の先生方が発起人となって「功績を未来永遠に表彰せんため肖像を扁額に製へ紀念として同校内に掲げん」ため、募金活動したことが明治31年1月22日付けの佐賀新聞に掲載されています。確かにこの絵の右下には「明治三十一年五月 波々伯部繁写」と、描いたであろう画家のサインが残っています。大分調べましたがこの画家がどういう方だったかがわかりません。どなたか、この画家のことをご存知の方がいらっしゃったら是非ともご教示ください。
(尾)H29.5.2