前回は、“古九谷様式”に続く様式の変遷についてお話ししているところでした。最高級品は、特定の“古九谷様式”の技術が大川内山に移転し、それを改良して“鍋島様式”が完成し、また別の“古九谷様式”が南川原山に移転し、“柿右衛門様式”ができあがりました。また、その他大勢では、最下級品は、17世紀後半もずっと“初期伊万里様式”の類品が作られ続けたってことを話してました。
残るは高級量産品と中級品ですが、中級品の山では、一つ上の高級量産品と類似するものと、一つ下の下級品と類似するものが混在することが特徴です。ですから、あまり様式的な独自性というものはありません。
ということで最後は高級量産品ですが、これはちょっと説明がやっかいです。最高級品は“鍋島様式”と“柿右衛門様式”に移行し、下級品は“初期伊万里様式”風の製品が作り続けられるわけですが、そうすると何か気付きませんか?そうです。もう“古伊万里様式”以外の様式名が残ってないのです。確かに生産地別分類だった時代は、“古伊万里”=肥前民窯製品ですから、その中に含まれました。でも、様式分類の“古伊万里様式”は“柿右衛門様式”の後に登場してくるもので、少なくとも“柿右衛門様式”の前、つまり、“古九谷様式”に直結するものではありません。さて、困りました。どうしましょう。でも、ご安心ください。実は、正式な様式名がないというのが正解なんです。
高級量産品の産地とは、この時期には、具体的には内山です。内山というのは、時々の一番の需要のボリュームゾーンを担った場所で、地域として窯の数が最も多かった場所です。ということは、この17世紀後半頃には、様式名のないものがワンサカ存在するってことです。技術的には一部大川内山に移転した“古九谷様式”の技術の影響を残しつつも、その上から南川原山に移転した技術をガバッとおっかぶせたような感じで、ひと言で言えば南川原山の劣化版みたいなもんでしょうか。って、ひと言で言えば簡単に思えるんですが、それがどうして、あまりに製品のバリエーションが豊富過ぎて、とても一つの様式として括るのはムリです。とは言え、とりあえず括っとかないと説明が煩雑になりますので、ここでは“内山様式”と仮称しておくことにはしますが。
先ほど、この仮称“内山様式”には、正式な様式名がないって言いました。でも、少し陶磁史に詳しい方だと、特定の種類については、名称が存在することをご存じかと思います。たとえば、“藍九谷”です。学術業界ではほとんど使われることはありませんが、古美術業界などでは今でもバリバリの現役名です。名前から容易に想像が付くと思いますが、“古九谷(様式)”の染付バージョンです。
ただ、“古九谷様式”の染付製品と言えば何だかスッキリ分かったような気分になるかもしれませんが、まあ、そう単純でもないのです。これについては、また次回お話しすることにします。(村)
肥前陶磁の様式変遷図