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窯業教育の歴史 其三

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有田徒弟学校の趣旨を引き継いで、陶業振興を目的として明治33年(1900)に設立されたのが佐賀工業学校有田分校です。このあたりの経緯に関して「肥前陶磁史考」には次のようにあります。
「有田徒弟学校の維持費は主として石場の収入から支弁され、また県費や国庫の補助を受けたが、年々経費が膨張するに従い、維持することが容易でなく、同時にまた設備を完成させるためには県立に移管するよりほかに方法はない」ということで、横尾謙町長や川原茂輔衆議院議員らが大いに尽力し、33年度に校舎の新築を計画し、その敷地として泉山・金毘羅山西麓、新道の地を選び敷地全部を有田町から寄付をしたとあります。

分校設立当時の職員は山口出身の寺内信一・小城の徳見知敬を始め、久保常一郎、江原伝吾、深海峰一など有田出身の教師陣でした。明治35年(1902)4月、有田町泉山に校舎が新築落成しました。翌年、佐賀県立有田工業学校となり、昭和23年(1948)に佐賀県立有田工業高等学校と改称し現在にいたります。この間、素晴らしい教師陣に恵まれ、優秀な人材を輩出してきました。

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                    (染付皿写真 館所蔵)

 

そのような中、ひとりの教師を紹介します。(館報No36参照)

それは大正6年(1917)から同13年(1924)まで勤務された、神埼出身の腹巻勝太郎(号:丹丘)先生です。明治36年(1903)東京美術学校を卒業し、佐賀高等女学校、龍谷中学校、成美女学校などを経て有田に赴任しています。当時の教え子には後に日本芸術院会員となった古賀忠雄さんらがいました。
平成9年(1997)、次男で当時千代田町長の腹巻萬平さんが青木類次有田町長(当時)と親交があったことから、丹丘先生が残された有田時代の日記や絵日記を当館に提供されました。それを見ると有田工業学校のほかに波佐見の伝習所でも教えていたようで、大正7年10月12日付けの日記には山行きを兼ねて徒歩で境野越えし、朝8時ごろ出発して10時ごろ到着しています。学校の授業合間には同僚とともに大谷に松茸狩り行きなど、当時の暮らしぶりもわかります。絵日記のほうは、さすがに画家の絵で、顔の表情はあえて描かずに、その仕草をおもしろ可笑しく表現されています。

教育は素晴らしい教師陣がいて、それに応える学生がいて、さらにはそれらを強力にバックアップする地域社会があって成り立つのだと改めて思います。(尾)H29.5.23

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  (百田さんによる先週の当館玄関を飾るお花)

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