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有田の陶磁史(233)

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 前回は、仮称“内山様式”には正式な様式名はないけど、その中でも染付製品については、“藍九谷(様式)”って名称が、古美術業界などを中心に今でも使われているって話をしてたところでした。続きです。

 この“藍九谷”ですが、名称が使われはじめたのは、まだ生産地分類だった頃です。その頃には、というか、様式分類になってもずっと、“古九谷様式”は17世紀後半いっぱい頃まで作られていたと考えられていました。これが現在のように、1650年代中頃までと判明したのは、発掘調査が進んでからのことです。ですから、そんな大昔のことではありません。

 ということは、“藍九谷”は生産場所別分類だった頃の年代観を踏襲しており、1650年代中頃を下限とする現在の“古九谷様式”よりも年代的な範囲が広いことになります。よって、生産期間的には、“古九谷様式”=“藍九谷(様式)”という関係ではありませんのでお間違えなく。

 わざわざ染付製品と色絵製品などの範囲を変えなくていいじゃんって思うかもしれませんが、本当にそうですよね。でも、そうなってるんだから、その理由をちゃんと理解しといて、柔軟に使うしかありません。

 もともと生産場所別分類だった頃には、“古九谷”の時期的範囲に色絵と染付に年代的な差はありませんでした。当然です。ただし、分類自体が色絵製品から出発してますので、分類の成立当初は染付はありませんでしたけど。でも、様式になる頃から違いが出てきたのです。というのは、周知のように17世紀後半の色絵製品は海外にたくさん輸出されています。同様に染付製品もいっぱい輸出されているのですが、実は、そうしたタイプの染付製品の多くは元より“藍九谷”には加えられていません。九谷ではなく、有田製だと考えられていたからです。“藍九谷”と呼ばれるのは“柿右衛門様式”などと比べ線描きの太めの主に皿類で、皆無ではありませんが、割合的には色絵製品ほどは海外には輸出されていません。

 ところが、海外に輸出された色絵製品の中に、生産地規模としては零細な九谷製がたくさんあるのは変ってことになってきたのです。それで、やっぱり有田製でしょうってことになったもんですから、そうしたものを“初期赤絵”という名称にして、“古九谷”からは分離しました。九谷ではなく、有田の初期の色絵製品という意味です。残りのピュアな“古九谷様式”の色絵製品については、まだまだ生産地論争が盛んに行われていましたので、いっしょくたにはできなかったのです。

 そのうち、“藍九谷”も全部有田製品に産地替えされました。そして、最後に“古九谷様式”の色絵製品が有田製に変わったのです。こうした経緯により、染付と色絵の“古九谷”の範囲がバラバラになったのですが、一方で、色絵の“古九谷”も有田製になったことで、“初期赤絵”の前の時期に位置付けられますので、初期ではなくなってしまい、この名称も使えなくなってしまったというオチです。ですから“初期赤絵”の用語は現在では死語になっています。

 ということで、今回はおしまい。(村)

肥前陶磁の様式変遷図

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