前回の館報「季刊 皿山 No,113」で、幕末から明治にかけて活躍した手塚亀之助さんを紹介しました。このほかにも、この時代に有田焼の存亡をかけて活躍した人がたくさんいますが、その活躍を陰で支え続けた母や妻、娘たちが大勢いたことは容易に想像がつきます。平成10年(1988)に、元館長のもとで女性たちに焦点をあてた「おんなの 有田皿山さんぽ史」を編集発行しましたが、その時も有田の陶業を支えたのはおんなたちではないかという思いからでした。しかしながら、なかなかそれを裏付ける資料が少なかったことを思い出します。
その後、仕事をする中で有田のおんなたちを知る手がかりが少しずつではありますが出てきました。例えば、手塚家では亀之助さんの妻・ためさんは泉山の百田恒右衛門家から嫁いでいますが、百田家は精磁会社設立やその後を支えています。現在、精磁会社のことを調査する際に役立っている百田家文書はこの家に伝わってきた史料です。また、百田家には深海平左衛門(墨之助・竹治兄弟の父)の姉が嫁いでいます。これ一つとっても有田皿山の家々は網の目のようになにかしらの繋がりがあります。余談ながら、(尾)が有田町に就職したばかりのころ、ある方から「有田で人の噂話を言う時は、その方と親戚であるか否かを確かめてから言わないと大変なことになるよ」という裏話を聞かせていただいたことがありました。つまりは、こういう実情を教えて下さったものと思います。
閑話休題。亀之助さんの母・たかさんは、弘化4年(1847)8月、38歳で夫・清三郎さんを亡くし寡婦となりました。その後は味噌屋を家業として当時8歳の亀之助さんを育てました。そのたかさんのことを、孫で亀之助さんの次男であった栄四郎さんはその自叙伝で「資質闊達の女丈夫」であったと記しています。たかさんの生き様は商売に精を出す傍ら、非常に温情味があり憐れみも深く、貧しい人に色々と物を施すことを楽しみにしていたそうです。
また、孫の教養にも力を注ぎ、人の悪口ではなく良いことだけを聞かせていたところ、亀之助さんの妻・ためさんは良いことだけ聞かせるのはよくないのではと訴えても、常に子どもをいじけさせることはよくない、良いことはどんどん誉めて大いに天分を伸ばすようにと訓戒したともあります。このような祖母の教えを受けて、国一・栄四郎・米一の三兄弟は成長していきました。国一さんは明治19年7月に渡米し、その後貿易商として成功をおさめ、米国人女性のドラ・メミさんと結婚しました(館報No,78参照)。
次男の栄四郎さんは精磁会社の後始末をし、明治34年4月、澤井廣子(ヒロ)さんと結婚しました。廣子さんは多久の官吏・澤井俊蔵の長女です。また、明治期の有田を代表する教育者であった江越礼太先生の妻・タメさん(昭和4年10月30日没)は多久邑の士族・澤井泰助の娘で、廣子さんも江越家を介して手塚家に嫁がれたのではないかと思われますし、その先祖は澤井泰助に連なるのではないかと思われます。この澤井泰助は西忠能の五男で、姉は今年、没後150年となる佐賀藩を代表する学者であり教育者でもあった草場佩川の妻・佐与でした。佩川は妻のことを実家の西家にちなんでお仁志と呼んでいたとか。このように武士の家系に連なる方でしたから、以前、栄四郎さんの次女・故松本孝子さん(当時東京都在住)にお会いした際に、母の廣子さんがよく口にされていたのは「武家と商家はいろんな面で違う」という言葉だったというお話を伺いました。明治の時代はまだまだ江戸時代の気風が残っていて、廣子さんには武家の出であるという矜持が保たれていたのでしょう。
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前列右廣子さん、中央ためさん、左ドラメミさん、 長女清子さん、後列右栄四郎さん、左国一さん (百田孝家提供) | 百田さんによる当館玄関を飾る今週のお花 |
ちなみに、有田の代表的な文化人であった正司考祺家に残る芳名録には、明治6年11月14日に、多久の澤井泰助が西嘉吉と共に訪れている記録が残っています。なお、泰助は明治17年75歳で亡くなっています。
(尾)H29.6.13