引き続き『昭和二十八年度保育園概要』を見ていきます。まずは園児数についてみていきます。有田幼稚園は大正8年の設立時の園児数は49人、その後増減を繰り返しますが大体60人前後の園児が通っていたようです。それが、町立に移行した昭和2年には99人、年々増加を続け有田保育園との合併前の昭和23年には223人になっています。
対して有田保育園は昭和10年の開園時は26人、少しずつ微増を続けますが、合併前の23年時は73人の園児がいました。合併後の24年は293名ですが、この記録が書かれた昭和28年は何と442人に増加しています。1940年代のベビーブームによる人口増加の影響も勿論大きいでしょうが、昭和28年度の入園事由として半数を占めていたのは「環境がよくない」というものでした。因みに次点は「入園させねば働けないため」ですが、現在ならこの事由が保育園に預ける一番の理由になるかと思います。環境がよくない、という意味が子どもを保育・教育する設備や知識が足りないので専門家に預ける、ということならば、現在の幼稚園の入園事由に近いのでしょうか。幼稚園の方が児童数が多かったようなので、もしかしたらカリキュラムも幼稚園よりだったのかもしれません。ひょっとすると現在の認定子ども園と同様に幼稚園と保育園と合わせたことをしていたのかもしれませんね。
さて、園児数は分かりましたが、本園と分園では受入対象が違っていました。本園は一年保育で5~6歳、全町内の幼児が対象で定員は200人。白川分園は2~4年保育で2~5歳まで、6ヶ町内の幼児が対象で定員は150人、泉山分園、中の原分園も2~4年保育で2~5歳まで、それぞれ2ヶ町内の幼児を対象とし、定員はそれぞれ80人と50人。全部で480人が受け入れ可能人数だったようです。「町内」が何を指しているのか定かではありませんが、おそらく泉山分園は「泉山・中樽」地区の2ヶ所、白川分園は「上幸平・大樽・幸平・赤絵町・白川・稗古場」地区の6ヶ所、中の原分園は「中の原、岩谷川内」地区の2ヶ所、そして本園は旧有田町の全地区対象ということなのではないかと思われます。
【本園の建物図(館蔵『昭和二十八年度保育園概要』より)】
『昭和二十八年度保育園概要』には遊具のことも書かれています。例として本園の遊具を紹介しましょう。上台2、枠登1 太鼓橋1 ぶらんこ7、砂場7坪、と記録があります。上台、は「のぼりだい」と読むのでしょうか、おそらくすべり台のことではないかと思われます。枠登とはジャングルジムのことです。7坪の砂場とはなかなか広いですね。また170坪の運動場を有していました。
最後に、職員についてご紹介しましょう。園長の今泉荒太郎以下、保母が本園に6人、泉山分園に3人、白川分園に4人、中の原分園に2人、賄婦が2人、さらに嘱託として園医、歯医、看護婦が各一名ずついました。各分園に主任保母がいて全園の主任として、星野房代先生がたたれていました。大正10年時の保母2人と比べて、保母が15名になっていますが、生徒数は442人に増加していますし、2歳の幼児も対象となっていますので、保母さんの苦労はあまり変わらなさそうです。
【有田幼稚園の先生と保護者と園児か】
左の椅子に「卒業紀念 金ヶ江橘郎 有田幼稚園」、右の椅子に「卒業紀念 徳永久 有田幼稚園」その下に「昭和十一年五月(不明)」と見える。昭和11年以降の有田幼稚園での様子と思われる。右から3人目は12代今泉今右衛門夫人の今泉クイさん(複写 久富家蔵)
(永)H29.6.21