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有田の陶磁史(213)

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 前回までで、ようやく寛永14年(1637)の窯場の整理・統合を経て磁器の専業体制が確立し、10年後の正保4年(1647)には再び陶工の追放命令にともなう山本神右衛門らの運上銀の増額の説得と、山本さんの初代皿屋代官への就任ってとこまで進んでました。そして、山本さんの陶工懐柔策の中身としては、おそらく海外輸出への対応とそれに伴う付加価値の高い古九谷様式という新様式の普及ではないかという話をしてました。

 それで、今回からは少しその古九谷様式の話をしようかと思うのですが、今までにどっかでこの様式の話ってしてましたっけ?この様式の話がしっかり理解できてないと、いきなり古九谷様式の話をしても、確実に頭の中がこんがらがりますので。まあ、書いてる本人も覚えてないくらいですから、書いてても皆さま忘れているはずですので、とりあえず、様式の話をしとくことにします。これについて、案外正しく整理できている人は少ないんですよ。

 まず、肥前の磁器様式には、“初期伊万里様式”“古九谷様式”“柿右衛門様式”“古伊万里様式”“鍋島様式”というのがあるのはご存じのことか思います。いや、別にご存じでなくても構いませんよ。これから、正しくご存じになりますので。

 それぞれ、何だか意味ありげな名称が付いてますよね。今、脳裏でパッと“初期の伊万里”、“古い九谷”、“柿右衛門”、“古い伊万里”、それに“鍋島”って想像したでしょ。ところが、おっとどっこい。少なくとも、現在ではこの名前に、特に、まったく、ゼッタイに、少しも、みじんも、意味はありません。要するに、“A 様式”や“B 様式”でも、“1様式”や“2様式”でもいいということです。考古学の人は大好きですが、古美術的には味気がないですけどね。まあ、味気がないから、思わせぶりな名前が付いてるわけですけど。

 そもそも、こうした分類が頭を出しはじめて普及したのは、大正から昭和初期のことです。ずっと、ずっと昔、昔、“彩壺会”の話をしたかと思います。たしか、磁器の創始者祥瑞というところでだったと思います。東京帝国大学文科大学心理学教室に設けられた陶磁器研究会で、大河内正敏ほか実業家やら学者やら…、まあ、お金持ちの集まりで、権威のある集まりだったってことです。この活動の中から、それまで茶碗だとかしぶ~いやきものが好まれていた中で、色絵磁器などが注目されはじめたのです。まあ、簡単に言えば、この頃から古陶磁研究の主役が、茶人から学者や研究者と言われる人に変わっていったってことです。

 そして、ここから普及してきたのが、“古九谷”、“柿右衛門”、“古伊万里”、“鍋島”という磁器の種類です。あれっ?“初期伊万里”を書き忘れてる!って思った方もいらっしゃるでしょうが、いえ、めっそうもございません。書き忘れたわけではありません。この頃に、まだ“初期伊万里”という区分はなかったのです。

 ということで、今回は、こうして磁器の種類分けは、大正から昭和初期にはじまったということを記憶しておいてください。(村)

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