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金ケ江家のおんなたち

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有田町から車で40分ほどのところにある多久市には、佐賀藩大配分・多久家の資料をはじめ、中世後藤家文書など膨大な資料があります。この資料を収集・保存に奮闘努力されたのが故細川章さんでした。昭和30年以来、多久市立図書館の司書として勤務される傍ら、散逸、消滅に瀕していた古文書や合併前の旧村役場の行政資料や石炭関連の資料の収集・保存に一生を捧げられた方でもありました。
昭和53年、これらの資料を求めて多久に足を運んでいた国内外の研究者が中心となって、「多久古文書の村」が発足しました。この「村」という呼称には、多少遊び心が入っているが志は真剣で、消えゆく日本の村には貴重なもの、人が残っているのだという思いで命名されたものでした。村には村長、助役、散使(さじあるいはさし)がいて、「村定」があり、「公役・くやく」や「寄合」、「株」などが決められました。不定期ながら「村だより」を発行し、2年後には古文書学校が創設されました。不肖(尾)はこの学校の一期生でもありました。村にはドイツやメキシコの大学から大勢の学生が来村し、会所となった細川さんの叔父様の家で合宿をし、日本の田舎暮らしを体験されました。このような活動が認められてサントリー文化財団から「地域文化賞」を受賞されたのが昭和60年のことでした。
その後、3年前に細川さんが逝去され、他の村民も高齢化してきて、先日の村大寄合で今後のことを検討しましたが、95歳になられた秀村前村長が、杖をつきながら福岡からお越しになり、村への熱い思いを語られました。そのお話を聞きながら、5年前に引き継いだ現村長と散使の(尾)などはもう少し頑張ってみようということになりました。

前段が長くなりましたが、この多久と有田の関わりは初代金ケ江三兵衛さんが日本へ連れて来られた当初、多久に預けられたことに始まります。その後、有田皿山とは深くかかわってきた多久には、有田皿山に関する資料も「肥陽旧章録」をはじめ数多く残されています。先日、古文書学校の生徒さんたちが翻刻出版された「御屋形日記 第四巻」にはとても興味深い記述がありました。それは元禄六年(1693)八月六日の記録で、次のような事柄です。
一 有田皿山へ罷居候御被官鐘ケ江弥次右衛門三番目之娘、年十三ニ罷成候、彼女物を書申左右ニ御座候、右之段十左衛門様被聞召付、御内ニ被召仕度由、此間折々弥次右衛門へ被仰聞候、乍去、豆州様御内ニ被召仕儀共ニ候ヘハ幸ニ奉存候

sanbebohi
初代金ケ江三兵衛墓碑

つまり、皿山にいる鐘ケ江弥次右衛門の三番目の娘(名前はわかりません)が13歳になっているが、その娘が物を書く(能筆)ということを、十左衛門様(武雄・鍋島茂紀)が耳にされ召し抱えようと父親の弥次右衛門に色々と聞かれているようだが、豆州様(八代多久茂文)にも姫君がいるので、多久でもお側に召し抱えようとされているという次第が書かれています。また、この鐘ケ江弥次右衛門は同じく「御屋形日記 第三巻」の元禄四年(1691)卯月十五日の一文から、「大坂焼物売買指越」とあって、焼物商売を生業にしていることがうかがえます。そのような弥次右衛門は娘の教育にも熱心だったのでしょう。殿様の耳に届くような才能を持った娘に成長したようです。初代金ケ江三兵衛には金ケ江家が「十軒金ケ江」と称される一族がいらっしゃったようです(金ケ江家文書三に「我々先祖拾人被相撰、其末名被官ニ而難被召置ニ付而、御扶持方被為 拝領」)。しかしながら、現在十四代目の金ケ江三兵衛家以外のそれら子孫の系統はよくわかりません。ただ、この弥次右衛門家も多久家の被官の一人として活躍していたことは容易に想像できます。しかも、その娘はとても優秀だったことも記録に残っており、これからの調査が待たれるところです。(尾)H29.6.27

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