長々と有田幼稚園について紹介し、その流れで東有田町との合併後の保育園の状況から現在の状況まで書いてきましたが、では有田幼稚園以外に幼稚園はなかったのでしょうか?実は、曲川村に南川良原保育園があったことが確認されています。
因みに南川良原(なんがわら)地区は元々曲川村ですが、昭和30年曲川村と大山村が合併して西有田村になった後(東有田町と有田町の合併は前年の29年)の昭和31年1月に西有田村(旧曲川村)より分村し、有田町と合併しました。この辺りの話はまた別の機会にご紹介させていただきたいと思います。また、南川良原の地名表記は「南川原」「南川良原」「南川良」などと色々あります。
さて、『有田町史政治社会編II』によると、大正3年3月26日に私立南川良原保育園の第1回保育詔書授与式が行われています。園主島田卯吉、保母は石隈よお(ヨヲとも)、園児24名であったそうです。また、『南川原村郷土史』には「南川原起徳会女人会付属幼稚園」として大正2年5月1日に開園し、幼児として善良な習慣を習得させて家庭の保育を補うことを目的として設立。建築費用70余円は寄附金でまかなわれ、大正7年まで存続した、と記されています。
この幼稚園は曲川村の青年団の成立と発展に関係があります。詳しくはこれも別の機会に紹介したいので、簡単に紹介しますが、青年団のリーダーが島田卯吉です。彼は曲川村及び西松浦郡の農業発展に大きな貢献を果たした人物で、『西有田町史 下巻』によると、青年の教化のため明治36年ごろに「南川良原夜学会」を開き、寄附金により「夜学舎」を建てます。この夜学舎が前述の南川原幼稚園の所在地になります。夜学会の授業は曲川小学校の教師による輪番制でした。これが南川原地区の青年団の始まりで、曲川村ではこういった社会教育組織が比較的早く誕生したようです。同様に婦人会も比較的早く作られ、明治40年10月に南川原地区に主婦を中心とした「女人会」が作られます。家庭の改善、風儀の矯正を目標に掲げました。またその2ヶ月前には農業研究グループ「起徳会」が発足し、この起徳会と南川原女人会(婦人会)の共同で幼稚園の開設に至ります。
『南川原村郷土史』には南川原幼稚園の規則が記されていました。それによると、保育時間は毎週18時間、日曜祝日、夏季、冬季、5月1日の創立記念日は休みで始業は9時から(6月~9月は8時30分始業)、入学対象は曲川村在住で翌年就学するもの、保育料は毎月5日に15銭(但し入学したいが貧困なものは南川良原区民に限り半額又は無料)といったことが分かります。また、感染症と思える児童の通園拒否、1ヶ月の欠席は除名といったことも書かれています。
大正10年の有田幼稚園の保育料が30銭だったのに対し、約半額です。因みに有田幼稚園の保育料は徐々に値上がりしていたようで、大正12年8月15日の『松浦陶磁報』の記事によると保育料がついに倍額の1円に値上がりした、と記されています。
この金額がどれくらいのものなのか、現代と物価が違うので中々一概に言えません。参考までに、『明治・大正・昭和 値段の風俗史』(週刊朝日編 朝日新聞社 昭和56年1月30日初版発行)より、米の値段を比べると、東京における白米10kg当たりの小売料金で、大正元年は1円78銭、大正5年で1円20銭、大正8年3円86銭、大正11年で3円4銭となっています。現在はいろんな種類の米が出ていますが、国産米で大体10kg3,500~4,500円くらいでしょうか。現在との直接比較は難しいですが、大正時代に段々物価が上昇していたことは分かります。(永)H29.7.5