今週は盂蘭盆会を迎える有田町です。周辺では今でも旧暦でお盆の行事を行う地域が多い中にあって、有田町では明治のころから新暦で実施していたことは以前も紹介しました(有田村役場日誌に明治39年新暦に改めるとあります)。現在読み進めている田代家文書No672の「明治廿一年 各地出翰扣」の中には7月11日夜、有田にいる田代助作さん宛に長崎田代屋から出状の一文に「当地ハ新暦ニ而盆祭執行」ということが記されています。これを見ると、有田村よりも早く新暦に移行したことがうかがえます。
日本が太陽暦(新暦)に変わったのは明治6年(1873)の1月1日からで、これは旧暦(太陰暦)でいうと明治5年12月3日にあたりました。急激な社会変化に伴い、世界に後れを取るまいとした明治政府の意気込みかと思いますが、一説によると財政の窮迫に苦しむ政府が明治5年の12月を消滅させることにより、官吏の給料など一か月分の経費を節減するためであったともいわれています。この突然の太陽暦施行のため、庶民は生活上対応ができない事も多く、新旧の暦がしばらくは併用されたそうです。ただ、この書状にある「当地」というのは長崎のことで、一旦は区役所から新暦での実施の通達があったことがわかります。しかしながら、精霊流しでも有名な長崎の盆行事は、今では旧暦で行われていますから、役所の通達はあまり効き目がなかったのではないでしょうか。それに引き換え、我が有田は政府の意向に従って明治のころより新暦で通してきたことになります。
ご先祖様をお迎えする行事は、菩提寺の宗派に依って異なりますが、お盆の期間中(中にはそれ以前から)新盆をお迎えされた家々に初盆参りをする人々の姿が町中で見受けられます。今年は当課の委員会を牽引された会長や、13代金ケ江さんなど多くの方々をお見送りしましたので、彼岸から戻られた皆様にお参りする予定です。
ただ、先週から九州北部は豪雨が続いていますし、有田町でも土砂災害が発生しました。これ以上被害が出ないことを祈りつつ…。 (尾)H29.7.11
50年前の昭和42年7月9日、有田・伊万里地方を襲った大水害。
道路は川と化し、泉山や白川では土砂崩れが発生した。
百田さんに活けていただいた今週のお花、
涼しげなお花です。