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田代家のおんなたち

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以前、田代家文書を読む会を開催していることをお知らせしましたが、回を経るごとに参加される方も増えて現在6名の方々が150年ほど前の有田を伝える資料を読み解いていらっしゃいます。今月は今週20日(木曜日)です。

この田代家にも歴代のおんなたちがいました。膨大な文書資料の中でも各地に出した書簡の控えがあって、10cmほどの厚みを持つ簿冊の形状になっているのが、先週もご紹介した各地への書簡控えです。これがまた難解な文字で、なかなか取り掛かることができずに敬遠していましたが、書き手の癖をつかんで文字に慣れていけば、意外と文字が追えるようになるんですね。この書簡控えは、長崎や有田、また中国(当時は清国)の上海や芝罘などから出したものなどさまざまな内容ですが、よくもまあコピー機もない時代にこれだけの量の手紙を写し取ったものだと思うほど。
中には焼き物商売以外にも日々の暮らしに関する事柄も多々記されています。例えば、明治21年2月5日付けには「大隈伯、本月1日外務大臣ニ任セラレ」、2月22日付けには「(長崎)廣馬場橋側支那人綿屋ヨリ出火、延焼凡7,80軒」など当時の社会状況も書き記し、3月3日付けでは「母親七十歳之賀、並ニ小弟及愚妻疫(厄)晴レ相営」むために、長崎からさまざまな品を買い求めて有田に送ったことが記されています。

紋左衛門さんの妻ノブさんは大樽の商人・手塚十兵衛の娘で、助作、ユウ、ヒデ、アサ、カタなど8人の子を産みました。残念ながら男児2人は早世し、成人となった男の子どもは助作さんだけでした。でも、この助作さんは殊の外、親孝行だったようで、その様子も先の資料から垣間見ることができます。例えば、着物や鋤焼き鍋、またカステラや金平糖などを長崎で購入して有田へ送ったり、わざわざ佐賀から医者(山口氏)を呼んで母を診察してもらったりと母への孝養を尽くしています。もちろん、助作さん一人でということではなく、夫の紋左衛門さんや娘たちもまた、妻や母を大事にしていたものと思います。

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左から紋左衛門さんの妻ノブさん、
紋左衛門さん、手塚政蔵さん(田代家提供) 

しかしながら、薬石効をなさず、ノブさんは明治21年6月8日に死去しました。この折も、長崎田代屋の人々を中心に危篤状態に陥った母のために、恐らく当時は高価なものでなかなか入手も困難であったろう氷を、長崎大浦地区に住む西洋人に頼んでみたり、また当時長崎小浜に滞在中のアサさんの夫・林堅八さんに頼んだりと八方手を尽くして探しています。そしてやっと函館の氷を手に入れ、長崎から時津の昼の船便で送ろうとしますが、すでに出航後だったので和船を貸し切って150ポンドの氷を病床の母のもとに届けました。当時、助作さんは清国滞在中でしたが、急ぎ帰国し母の臨終に間に合いました。最後の様子は「御母様ニも余程御喜悦、御咄共相成、昨朝氷共召したる末、終に御養生不被相叶」と記されています。幕末から明治という激動の時代を生き抜いた田代乃婦(ノブ)さん。
田代家という大きな貿易商人の家を切り盛りし、支え続けた一生で、享年70を生きた有田のおんなの一人でした。(尾)H29.7.18

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百田さんに活けていただいた今週のお花 

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