文字サイズ変更 拡大標準
背景色変更 青黒白

教導所

最終更新日:

多久市の公益財団法人孔子の里は多久邑の郷校・東原庠舎の跡地の一角にあり、そこで「鶴山塾」という講座が開かれており、先週、19日(土曜日)に「有田皿山と多久邑」という演題で、いろんな資料を引っ張り出してきてお話しさせていただきました。かつて「多久の雀は論語をさえずる」と称されたほどの文教の地であり、初代金ケ江三兵衛が預けられたのが多久邑で、その後、金ケ江一族などが多久家の被官であったということもあって、多久と有田は深い関わりがありました。また、江戸後期には有田を代表する文人であった正司考祺が、多久家の儒者であり東原庠舎の教授であった深江順房や草場佩川などと盛んに交流を行っていました。そのあたりのこともお話しさせていただいたところです。

DSC03921_1

東原庠舎旧跡の石碑

ところで、江戸時代の教育施設として、有田皿山の上幸平に教導所が開設されました。天保9年(1838)のことです。そこの教授陣には前述の佐賀藩きっての儒者であり教育者でもあった多久邑の草場佩川が任命されました。『草場佩川日記』には「陶山教導之命、教導所之義ハ代官存ニ而、新ニ建立之筈也、代官ハ丹羽久左衛門、右助役香田新蔵・中島文作両人」という体制で、常時は二人の助教がいて佩川自身は月に2、3回出張するという形になっていたようです。

この教導所が開設されるにあたっては『皿山代官旧記覚書』の寛政2年(1790)の記事に「有田皿山之儀、追年不景気ニ相成、釜(窯)焼・細工人等至而及零落、其上細工人共風俗不宜、職方出精不仕者も間々有之」とあり、さらに文化6年(1809)の口達では有田皿山は御国第一の産物の場所である所に、他国の者が入り込み、「自然と人気風俗悪敷」場所柄となっていることから、たびたび藩から大庄屋などへしっかりと人々を取り締まるようにとお達しが出されています。さらに『肥前陶磁史考』には「大火(文政の大火・1828)後、此地の人心荒み民俗獷悍となり、郡代其人を得ざれば、物議紛櫌甚難治なるを以て、なほ別に宗藩より、碩儒草場佩川を、此教導所に派して講教せしめ、以て陶甄の法をとることにした」とあります。

いずれにしても、この地は風俗が荒れて治めにくい土地柄であり、教育を以って人心を新たにしようという試みだったようです。また『肥前陶磁史考』には「教導所の前庭には、一尺角に高さ一丈余の柱を建て、法に背く者を括りつけて、衆民へ晒すこととした」とあります。確かに『皿山代官旧記覚書』にはたびたび処罰の方法として棒杭に括り付け、日数二日間晒しを申し付けたなどという記事が出てきます。

このような甲斐あってでしょうか、明治期には学制公布と同時に白川学校(現在の有田小学校)が開校し、さらには実業教育機関として日本初の陶器工芸学校・勉脩学舎が開設され、明治20年(1887)には当時の文部大臣・森有礼が視察に訪れるほどの教育先進地となっていきました。(尾)H29.8.22

sagisou

れきみん応援団中尾さんから頂いたサギ草

このページに関する
お問い合わせは
(ID:953)
ページの先頭へ
有田町役場 文化財課

〒844-0001 佐賀県西松浦郡有田町泉山一丁目4番1号

電話番号:0955-43-2678

FAX番号:0955-43-4185

© 2024 Arita Town.