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有田の陶磁史(235)

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 前回は、生産量は多いのに正式な様式名のない仮称“内山様式”の生産状況について、説明している途中でした。下級品、中級品ときて、最高級品を生産した南川原山まで終わってましたので、残りは“鍋島様式”が完成した大川内山でも、“内山様式”は生産されたのかということです。と、その前に、前回南川原山の“藍九谷様式”と“柿右衛門様式”の写真を提示しようとして忘れてましたので、今回、くっつけておきます。Photo1が“藍九谷様式”、Photo2が“柿右衛門様式”で、両方ともに柿右衛門窯跡の出土資料です。

 さて、話を元に戻しますが、同じ最高級品を生産した南川原山でも焼かれているくらいですから、大川内山も同様ですって言いたいところなんですが、山としての生産スタイルが違いますので、ちょっと、いやだいぶ事情が異なります。というのは、ちょっと前に大川内山の生産スタイルについて説明いたしましたが、覚えていらっしゃるでしょうか。そうです。てっぺんの献上用などの御道具類と底辺の御助け窯製品の組み合わせだということです。実は、山としては下級品生産の窯場だということもお話ししました。

 つまり、下級品の方は“初期伊万里様式”っぽいものが主体ですし、生産品のほとんどが碗ですから、例外を除いて、ほぼ明確な“内山様式”っぽいのものはありません。一方、てっぺんの方ですが、有田から大川内山に移ってからは、ほとんど高台の高い皿を中心に作られており、文様やその描き方も有田時代から独特ですので、“鍋島様式”のスタイルにからは多少外れていても、“鍋島”という括りに含められることが常です。それに、“柿右衛門様式”と違って、“鍋島様式”は1650年代後半には確立しますので、“古九谷様式”と“鍋島様式”の間には生産時期上の空白がありません。したがって、“鍋島”グループの場合は、“古九谷様式”から直で、“鍋島様式”への変化ということになり、稀に例外はありますが、原則的に南川原山と違って、“内山様式”を生産していないのです。つまり、“内山様式”が生産されたのは、内山のほかには最高級品を生産した南川原山と中級品の山ということになります。

 以上のように、“古九谷様式”後の様式の変遷について述べてきましたが、もちろん、生産品のランクが違えば、まったく影響関係がないのかと言えば、そういうわけではありません。ただし、一定の法則があり、隣り合うランクどうしだと、上位ランクのより先進的な技術・技法やスタイルをはじめとする影響が、一部下位ランクの山に取り込まれる場合があります。具体的には、最高級品の南川原山の影響は、続くランクの内山には一部現れます。端的な例が、南川原山で技術が完成した“柿右衛門様式”の製品が、一部内山でも作られることなどです。でも、ランクを大きく飛び越えて、影響を与えることはほぼありません。“柿右衛門様式”の製品は、中・下級品生産の山にはないということです。ただし、内山で模された“柿右衛門様式”の要素が、二次的に中級品生産の山に取り込まれることはあります。

 という具合に、“古九谷様式”の後ろが従来の一列配置の様式変遷と比べて、かなり大きな違いとなるのです。切りがいいので、本日はここで終わり。(村)

 

肥前陶磁の様式変遷図

藍九谷様式

柿右衛門様式

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