このところ、国内はもとより世界中でこれまでにない災害が頻発しています。今もアメリカでは最大級のハリケーンが襲来しているというニュースが流れています。有田で起こった災害で最も大きなものは、文政11年8月8日の夜に襲来した台風によるものでした。旧暦ですから新暦(西暦)になおせば1828年9月16日のこと。
この年の干支にちなんで「子年の大風」などともいわれています。この台風はここ300年の中では総合力最強であったといわれています。最近は50年に一度とか100年に一度、あるいはこれまでに経験したことのない雨などという表現をよく耳にしますが、さすがに300年に一度という表現は見当たらないようです。
平成25年(2013)6月15日の新聞記事に、小西達男元佐賀地方気象台長(故人)らの研究による文政11年の台風(世にいうシーボルト台風)の分析が掲載されています。それによれば、九州を襲った時の中心気圧は935ヘストパスカル、最大風速は55メートルに達したと推測されています。台風は現在の長崎県西岸に上陸し、佐賀、福岡、山口の各県を進んだと思われます。ちなみにシーボルト台風という別名で呼ばれるのは、かのシーボルトがオランダ船のコルネリウス・ハウトマン号で出帆の予定のところ、この大暴風雨が長崎を直撃した際、船が稲佐浜辺に打ち上げられ、積み荷の中に国禁の資料(日本国地図や葵の紋章が入った紋服など)が発見されたことによります。
『浮世の有様』という資料によれば、ここ有田に襲来したのは「四つ時頃(午後10時)」で、「辰巳(南東)の方より大悪風吹き出し、家毎々々に戸を吹き散らし、家も崩るる如くにて、さも恐ろしき次第なり。子の刻(午前零時)頃、岩谷川内という所より出火ありけるが、風は強く吹き立ち雨は頻りに降り、火は風に任せて飛びまわり、天より火の降りし如くなり」という火災の様子を伝えています。さらに「地震は天地を覆さんばかりなり。川は大洪水となり退き行く方もなかりけり」と、火事と洪水と大風が一度に襲った最悪の状態を伝えています。また、お隣の平戸藩主であった松浦静山が著した『甲子夜話』には「旅人通り候得ば、ああひだるさよと云う声左右に聞え候。有田辺を通り候ものの咄に承り候」と記しています。
もう一つ、『文政時津風騒動記』という複写資料が手元にあります。それには当時の大庄屋某が一旦は家族と共に逃げたものの、余りの周章狼狽で公用向きの書記或いは年貢方の差し引きなどを記した帳面などを持ち出すことを忘れたことを思い出して立ち帰り、哀れな最後を遂げたことなどが記されています。昔もこのような責任感の強い町役人がいたことが偲ばれますが、暗闇の中、恐怖で人々は逃げ惑い、亡くなった人は40~50人ほどであったといわれています。かろうじて逃げ果せた人々も、嵐が静まってから皿山に戻ってみると、そこは一面の焦土と化していたといわれます。その後の復興のさなか、人々が暮らしたのは登り窯で、『皿山代官旧記覚書』によれば「釜住居」と記されています。その後、巡ってきた冬の季節の寒さや飢えを凌ぎましたが、同覚書には「有田皿山焼失ニ付、数千人之釜焼細工人共職方相続難相成」とあり、まさに有田皿山存亡の危機でした。
その緊急時には当時の皿山の人々の努力もさることながら、佐賀本藩や紀州・筑前の陶器商人たちにも援助を願い出て再興を果たし、400年の歴史が途絶えることなく現在に続いている焼き物の町・有田でもあります。(尾)H29.9.12
百田さんに活けていただいた今週のお花