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有田の陶磁史(10)

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日本の近世的な窯業の形成に、大きな影響を与えた肥前の技術。前回は、登り窯についてお話ししました。今回もその続き。

普段、皆さんが使っている器は、釉薬が掛けられているものがほとんどだと思います。釉薬は、以前ご紹介した「広辞苑」の説明では、土器にはない陶器の特徴として記されています。よって、陶器という種類の出現とともに、獲得した特徴と言えます。逆に言えば、日本では陶器は硬いやきものという基準はないので、人為的に釉薬を操れるようになったことによって、陶器という種類が誕生したということもできます。
釉薬は、ガラス化するので、水漏れを防げます。また、硬いので丈夫な器ができます。表面がツルツルしているので、汚れが付きにくくて落としやすいという衛生面での利点もあります。そして、さまざまな色を使えますので、装飾性も抜群です。こうした特徴から、出現した頃には相当な不可価値を持っていたのです。

日本で陶器が開発されたのは、飛鳥時代の7世紀後半と言われています。これは熔融剤に鉛を用いる低火度釉の緑釉陶で、この技術は後に奈良三彩として一花咲かせました。ただ、この技術は、近世には楽焼などで復活しましたが、中世には一度途絶えたように、日本では陶器の主流にはなっていません。
現在でも一般的な高い温度で焼く陶器の最初は、奈良時代の8世紀中頃に、愛知県の猿投山(さなげやま)というところではじまった灰釉陶器です。当時、緑釉陶器は“青瓷(あおし)”、この灰釉陶器は“白瓷(しらし)”と呼ばれ、ようするに中国分類の青磁・白磁の日本読みでした。

この灰釉陶器は、古代の須恵器の技術を改良したもので、これはたとえば備前焼や信楽焼をはじめ、中世に確立する有名な陶器の産地にも共通する特徴です。ただし、須恵器にはもともと施釉の技術はありません。そのため、中世に施釉陶器を生産したのは猿投の系統を引く瀬戸(愛知県)の古瀬戸だけで、同系の産地でありながら釉薬の技術を捨てた常滑などもあります。つまり、古瀬戸から、いわゆる美濃の桃山陶に繋がる高級陶器の系統だけが、日本では衛生的で、堅牢性や装飾性も備えた唯一の施釉陶器だったのです。

ここで一つ質問です。衛生面や装飾性など実用性を超えた贅沢はともかく、いくら無釉陶器でも、水漏れはちょっと困りますね。さあ、どうして解決したのでしょう?答えは……。高温で焼締めて、陶器質ではなく、吸水性のない炻器質にしたのです。もちろん、前に話したように、当時、炻器という区分はありませんが。
ということで、近世の初頭まで、日本では施釉陶器はすごい貴重品でした。ところが、ところがです。肥前ではじまった唐津焼は、当初から施釉するのが当たり前。下級品だろうが何だろうが、施釉が基本だったのです。そりゃそうです。前に触れましたが、多くは朝鮮半島の磁器の技術ですから。“腐っても鯛”ってやつです。

この日本ではすこぶる貴重だった釉薬を惜しげもなく掛けた陶器を、登り窯でバンバン大量生産して全国にばらまく。他の産地だって、もはや施釉陶器は貴重品だなんて言ってられません。こうして、急速に施釉が普及し、窯業の近世化が進んだのです。(村)H29.9.22

図1_1図2_1
無釉陶器(小溝上窯跡)施釉陶器(小溝上窯跡)

 

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