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有田の陶磁史(11)

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日本の近世的な窯業の形成に、大きな影響を与えた肥前の技術。「登り窯」、「施釉」ときて、ついにシリーズ化の予感…。いや、しませんよ。すぐにやめます。今日はしますが…。

本日のお題は、筆による施文です。ご存じの方はご存じ、知らない方は知らないと思いますが、古代にはすでに釉薬を操れるようになった日本の窯業ですが、筆で施文できるようになったのは、ずっとずっと後のことです。
筆で絵が描けるということは、どういうことを意味するでしょうか。まあ、いろいろあると思いますが、「○」でも「×」でも、簡単な絵でも複雑な絵でも、描こうと思えばどんな絵でも描けるわけですから、理論上は“∞”。「絵の異なる器」は「種類の異なる器」ですから、ほぼ無限大の種類の製品を創出することが可能になるのです。
中世までの陶器は、施文する際には、陰刻するとか、粘土を貼り付けるとか、およそ表現方法には限界がありました。これは機能性最優先の無釉陶器ならいざ知らず、装飾性も価値の重要なファクターとなる高級施釉陶器では、大きな足かせです。
近世初頭のやきものの聖地美濃、そこの桃山陶でも、肥前の唐津焼より前にはじまる黄瀬戸には筆による施文はありません。1598年に近い時期にはじまったとされる志野にはありますが、その前身の灰志野にも不完全ながらもわずかにはあるといいます。

唐津焼と灰志野、どちらが早いのか微妙なところですが、自力で技術を確立する必要のある国産技術の美濃に対し、大陸由来の唐津焼には、オプションではなく、標準仕様で鉄絵の技法が付いていました。してみれば、やはり唐津焼の方かもしれません。
いずれにしても、肥前では、いわゆる絵唐津と称される鉄絵製品を、登り窯でバンバン大量生産して全国にばらまく。他の産地だって、もはや施文陶器は貴重品だなんて言ってられません。こうして、急速に筆による施文が普及し、窯業の近世化が進んだのです。ちなみに、前回とほぼ同じ締めくくりにしてみました。
(村)H29.9.29

図1_1図2_1
陰刻文が一般的な青磁鉄絵が一般的な唐津焼

 

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