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有田の陶磁史(12)

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日本の近世的な窯業の形成に、大きな影響を与えた肥前の技術。前回で終わりのつもりだったんですが、何だかちょっとしっくりきません。「登り窯」に「施釉」、「施文」と続けましたが、なるほど、いくら肥前とはいえ、ほぼ唐津焼のことばかりです。そこは「有田の陶磁史」ですから、最後のトリくらいは有田で締めないと。というわけで、もちろん有田といえば、磁器です。

日本の磁器は、有田ではじまったことはよく知られています。本当は、同じ頃に有田周辺の多久市や武雄市、伊万里市、波佐見町などでも磁器は焼いていますので、今のところ、学術的には、絶対に有田が最初というほどの明確な根拠があるわけではありません。ただ、有田以外は、磁器も焼いてはいるという程度の量で、曲がりなりにも商品化に最初に成功したのは、有田と考えて間違いないと思います。
前々回だったか少し触れましたが、中世に成立する日本の陶器窯は、ほぼ古代の須恵器の技術から派生しています。古代には何々焼という概念はありませんでしたが、それぞれの産地が独自に技術を発展させたことによって個性が生じ、中世的な何々焼という固有の産地が誕生したのです。ということは、原点は同じ須恵器の技術とは言え、完成したそれぞれの陶器窯の技術は別モノということができます。まあ、いうなれば、同じ地下茎で繋がるタケノコみたいなもんでしょうか。とりあえず、日本の陶器の元は、地上に生えたタケノコみたいに、たくさんあるということです。

一方、日本磁器ですが、これは有田にあるたった一つの窯場で完成した技術が、有田周辺へと伝わり、その後直接的、間接的に技術が移転し、全国へと普及したものです。九州内には熊本県の天草や福岡県の小石原をはじめ、17世紀にはある程度技術が広がっていますが、それ以外で17世紀に技術が伝わったのは、1650年代頃の石川県の九谷焼と広島県の姫谷焼くらいです。この二つの産地の技術は、有田から直接伝わったものです。
基本的に、有田で磁器生産の技術を抱え込み、拡散を防ぐことによって、磁器の高い付加価値の維持が図られました。そのため、長らく磁器生産の技術が広がることはありませんでした。しかし、18世紀末以降になると、全国的に技術伝播が盛んになります。ただ、肥前から伝わった場合でも、有田の技術が直接伝わった例はこれまでのところ、知る限り確認できません。これは肥前風のサヤ鉢の有無や皿などのハリ支えの有無で、ある程度確認できます。

示したとおり、陶器と違い磁器の技術は元が一つなので、日本磁器はこういうスタイルで、こんな生産方法で作る、といった基本的なことなども、すべて有田で確立したものです。しかし、瀬戸や京都などのように、すでに陶器の伝統的な産地に磁器の技術が伝わった場合、ほどなく従来の技術との融合が図られ、たとえば窯や窯道具類などに肥前とは異なる様相が認められるようになります。こうした技術が再び別の場所へと移植された場合、窯や窯道具類などから、ある程度移植元の推測が可能なのです。

このように、全国に残る磁器の生産地の技術も、元をただせば、すべて有田の技術に帰結します。日本磁器は、今日でも染付製品を基本としていますが、もし別の場所で磁器がはじまっていたなら、まったく違った種類の製品が、現代の町なかにあふれていたかもしれません。(村)H29.10.6

図1_1図2_1
有田のサヤ鉢(粘土紐成形)皿の高台内に残るハリ

 

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