前回は、新年早々、またくだらない話をして、先に進めませんでした。本日より、通常営業を再開します。っても、毎度のことですが、何の話しをしてたんでしたっけね…??ってことで、前のを探してみました。概略以下のようなことでした。
1650年代中頃から60年代初頭頃に行われた内山の窯業の再編によって、結局、有田全体の窯業地がシャッフルされ、それによりヨーロッパを中心とした海外輸出の拠点ならびに窯業の中心地として位置付けられた“内山”と、それを補完するため山ごとにランク分けされた“外山”という概念が確立したって話でした。そして、高級量産品を生産した内山は、域内の窯場のすべてがあたかも一つの組織のような生産構造となり、上絵付け工程も分業化して、徹底的な効率的な量産体制が図られました。
一方、外山は内山以上に高級品を生産した南川原山や大川内山のごく一部や、内山の一つ下のランクに位置する中級品生産の外尾山や黒牟田山、さらに下ランクの下級品生産の応法山や広瀬山、大川内山などに分けられたってことでした。
そんで、この改革では、外山は内山のように上絵付け工程の分業化は図られなかったんですが、製品ランク分け生産がはじまったことで、内山以上に高級品を生産した南川原山と大川内山のごく一部を除けば、結局、まだ当時付加価値の高かった色絵磁器の生産からは撤退してしまいうことになったんでした。これによって、かつては外山地域の色絵磁器生産の雄として、まわりの窯場にも大きな影響を与えていた山辺田窯跡の万暦赤絵系の色絵の技術は、山辺田窯跡そのものが内山の上絵付け工程の分業化に伴い崩壊してしまったこともあり、完全に消滅してしまったわけです。
一方、上絵付け工程が分業化された内山の色絵は、外山の地域と違って、喜三右衛門さんちの南京赤絵系の技術の影響が色濃く反映されたものでした。ですから、17世紀後半以降は、喜三右衛門さんち由来の技術は生き残って、一番幅を利かせたってことです。もちろん、外山でも南川原山は、内山以上に喜三右衛門さんちの技術のピュアなところですしね。そんで、17世紀後半以降はランク別生産になったことで、生産品が変遷していく基本的なスタイルは、川上から川下…、つまり、より上級な方で開発されたものが、段々下ランクの窯場で、種類は絞られるけど、模されるって形が基本になるわけです。なので、最高級品を生産した南川原山や、続く内山は喜三右衛門さんちの技術の影響が大きいわけなので、それが外山の中・下級品生産山にも影響を与えるってことになって、まさに喜三右衛門さんちが天下を取ったみたいな状態になるわけですよ。
唯一の例外が大川内山で、五郎七さんちのごっつクセのある古染付・祥瑞系の技術がピュアな形で移植されたわけです。そんで、その技術で日峯社下窯跡で開発されたのが、鍋島様式ってわけです。正確に言えば、喜三右衛門さんちの技術が内山に伝わる直前に、すでに五郎七さんとのこ技術が普及してましたので、喜三右衛門さんちの技術で包み込まれたとはいえ、多少はその残骸が残っています。なので、古九谷様式の技術としては負け組が山辺田窯跡を核とした万暦赤絵系の技術で、大勝ちしたのが喜三右衛門さんちの南京赤絵系の技術で、そんで、天上天下唯我独尊的に脇目も振らずに独自路線を歩んで生き残ったのが、五郎七さんとこの古染付・祥瑞系の技術ってことなわけです。
まあ、こんな話をして、いざ内山の赤絵屋の話に入って、初期の赤絵窯の構造のことに触れたところで終わってたみたいですね。今回は振り返りで終わってしまいましたので、次回から続きをすることにします。(村)