前回は、本題に戻そうと、一生懸命有田の生産体制のことに持って行こうとして、うっかり大川内山のことに触れたもんだから、もう御道具山の話でもしとかないとしゃーないって状況になったところでした。また、ちょっとってか、ずっとそうのような気もしますが、話が脇にそれますがご容赦を…。
ところで、最初に言っておきますが、前回触れましたが、古文書でおなじみの「御道具山」を、現在一般に呼ばれている「藩窯」という言葉で代替すると、頭がフリーズしてしまいがちですので、お気を付けあそばせ…。これは、あくまでも研究の過程上創作された、新しい呼称ですからね。なので、「御道具山」からイメージ膨らませるのはともかく、現代のように「藩窯」の用語からイメージ膨らませると、たぶん違った姿を想像されてそうな気がしますけどね。まあ、どう考えても、御道具山より藩窯の方が堂々として風格ありそうに思えるじゃないですか。でーんって藩が運営する立派な窯があって、そこで厳重な警戒のもと、秘かに鍋島って言われる御用品が作られてるみたいな…?
まあ、そういう意味では、藩窯って用語は、案外に落とし穴っぽいかもしれませんね。じゃあ、そもそも論みたいな話ではあるんですが、本日は、藩窯なるものの正体について触れてみようかなっ?
大川内山に、現在、「鍋島藩窯」と呼ばれている窯跡があります。まあ、肥前陶磁史かじってる人で知らない人はいないと思いますが。そんでです…。これって、皆さん藩が直営した窯だと思っていませんか??まあ、大概の人はそう思ってるはずですけどね。「藩窯=藩の窯」って意味で付けた名称でしょうから。
じゃあー次。その藩窯なる窯の中で御用品だけじゃなくて、それ以外も焼いていたってことをご存じの方はどうでしょうか?まあ、このブログの読者の方は、大川内山はごく一部の最高級品と多くの最下級品の組み合わせだったって話を、常々してますのでご存じだとは思いますが…。そうなんです。実際に御用品を焼いたのは、登り窯の焼成室2、3室程度で、その他の多くの焼成室では、最下級品が焼かれてたんです。
そんで次っ!!この藩窯なるところでは、御用品の製作に携わっている陶工は、有田から時々の上手な人が選ばれて雇われているわけです。つまり、藩から給料貰っている、いわば準公務員です。ここまではよろしいでしょうか。ということは、同様に藩が所有権を持つ藩窯に関わっている人たちならば、その他の人たちも同じように準公務員のはずですよね。部署が違うだけで。
ところが、御用品生産以外に関わっていた、その他大勢のいわゆる「お助け窯」や「お手伝い窯」なんて言われる部署の人たちは、残念ながら藩からは給料貰ってないんですよ。理不尽でしょ。いくら立派な御用品には関わってないと言っても、こういう不公平はあきませんで…って思いませんか?
じゃー、なぜ現実的にこういうことがまかり通るかということなんですが、別に封建制度だったからじゃないですよ。まあ、ここが脳ミソ柔らかくして考えてねってキモです。
ところで、窯業に関わる古文書なんかには、時々「一窯」なんて記されていることがあります。当時の本焼き窯は登り窯ですので、当然、「一窯」と言えば一つの登り窯のことを指します…って言いたいところなんですが、これが違うんだな~。そもそも、そもそも登り窯というのは、現在の工房内にある窯のように、一個人や一業者の所有ではなく、所有者がたくさんいる共同窯です。したがって、登り窯の所有単位は個々の焼成室であって、「一窯」というのは、実は、個別の焼成室のことなんです。ちなみに、登り窯全体の場合は、「一登」と言います。
ねっ、もうお分かりでしょうか?そう、藩窯なるもので藩が所有していたのは、「一登」ではなく、「一窯」×2、3室ってことです。ならば、その2、3室に関わる人には給料払うけど、それ以外の人に給料払わなくても当たり前。雇用関係のない単なる民窯の人たちなんですから。大川内山って言っても、有田の皿山代官が管轄する単なる一つの山に過ぎないってことです。まあ、むしろ御道具山の方が民窯の間借りってことですよ。
どうです?藩窯ってイメージとは随分違いませんか??藩が間借りしていた窯室というのと、藩が直営していた窯というイメージからスタートするんじゃ、この後の論の展開はずいぶん違ってきそうだと思いませんか?ということで、本日はここまでにしときます。(村)