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有田の陶磁史(368)

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   前回は、もともと岩谷川内御道具山は、五郎七(B)さんが使ってた窯を引き継いでいるので、たぶん焼成室一つくらいから出発しているはずって話をしてました。つまり、世間の皆さまの多くが想像する、御道具山=一登りではなくって、御道具山=一窯なんじゃないってことです。だって、まだ例年献上の制度すら整ってないのに、そんなに御道具ばっか焼いてどうすんのよって話。

 ところが、慶安4年(1651)には、徳川家光の内覧を経て将軍家例年献上がはじまるわけです。たぶんここから、将軍家だけではなく、袖の下あげとかなくっちゃって幕府の要職だとか、口利きして欲しい面々とか、いろんなところに配るようになるんでしょうね。まあ、タダとは言わないけど、大貧乏な佐賀藩からすれば、自国の産物で賄えるわけですから、それまで長崎などを通じて中国磁器とかいろんな高価な品々を贈答していたことを考えれば安いもんですよ。

 ということで、そうすると、逆にちょびっと困った問題があることにお気づきでしょうか…?そうです。当然従来の藩内の御用品なんかとして使っていた時期と比べ、はるかに多くの数を揃える必要が生じるわけです。

 でも、工場長の善兵衛さんが管轄していたのは、たぶん岩谷川内山の猿川窯跡の焼成室1、2室分とか…、いや少なすぎ?、じゃ、3室分でもいいですが、ギリギリそんなもんだと思いますよ。これで例年献上はじまったら、完全にアウチでしょ。だって、江戸後期の大川内山の鍋島藩窯で、藩が使っていた焼成室が2、3室ですよ。焼成室数はいっしょですが、焼成室の規模が数倍は違いますからね。これじゃ、生産計画が成り立たないでしょうね。

 つーか、これだけしつこく言っても、たぶん多くの方々は“藩窯”って言葉が脳裏にこびり付いているので、じゃー藩が一登り全部運営して増産すればいいじゃ~んってなるんじゃないでしょうか?でも、ダメなんだな~これが…。

 じゃあ、さっきお話しした大川内山の鍋島藩窯で、何で藩は2、3室しか使ってなかったんだと思います?そりゃ、江戸後期のバカでかい窯だと、2、3室もあれば必要量を焼けたってことはありますよ。でも、そもそも最高級な品々を焼こうと思ったら、最適なのは登り窯のまん中あたりの焼成室で、その上下の焼成室では難があるからですよ。

 マグロに例えると、藩は一匹丸々欲しいわけじゃなくて、大トロの部分だけ欲しいわけですよ。でも、大トロだけ海に泳いでるわけじゃないので、どうしても1本買わないといけない。でも、売って儲けることが目的じゃないので、必然的に他の部分はムダになっちゃうでしょ。だったら、売るために買う多くの人たちと共同購入するのがベストでしょ。言ってみれば、これが藩窯ってもんの仕組みです。

 だから、一つの登り窯で生産量を増やそうと思えば、必然的に焼成室規模を大きくするしかないわけです。つまり、逆に焼成室の規模が大きくできないなら、複数の窯を自前で持つか、御道具山以外の複数の窯から調達するしかないってことです。でも、複数の窯を自前で持つってことは、大トロ以外を扱ってくれる人を新たに探さなきゃならないってことです。そうなると、陶工を増やして増産しても売れる体制整えなきゃいけないので、まあ、そんなすぐにどうにかできるってことでもないわけです。

 つーことで、本日はここまでにしときます。(村)

 

 

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