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有田の陶磁史(369)

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   前回は、登り窯の中で御用品クラスのものを焼けるのは、まん中あたりの2、3室程度って話をしてました。そんで、例えは何ですが、つまりマグロ1匹の中でも大トロの部分しか必要ないけど、御用品は残念ながら売って儲けるためのもんじゃないので、大トロ以外の部分は使い道がない。でも、そこは大藩ですから、贅沢に1本買いして、大トロ以外は破棄してました…、な~んてことあるわけないでしょ。ましてや、ド貧乏な佐賀藩に限って。じゃーどうするかって言えば、いっしょに1本買ってくれる民間人集めればいいわけですよ。それが“藩窯”なるものの登り窯の所有形態ってわけです。だから、藩が所有権持つのは大トロの部分のみ。ほかは、あくまでも民窯ってこと。つーか、よーは、逆に民窯の一部の所有権を藩が持ってるって意味。これでも“藩窯”って用語は適切??

 そんで、御道具山設立当時の、藩内での御用品消費って時代ならそれでも良かったものの、じゃー例年献上のはじまる慶安4年(1651)以降はどうすっぺって話です。だって、一気に必要量が増えるわけでしょ。

 でも、その時期、その時期で、登り窯の焼成室なんてもんはおおよそ標準的な大きさってもんがあって、それよりバカでかいもん造ろうにも、その時期なりの築窯技術の限界があるわけですよ。大川内山の江戸後期の鍋島藩窯跡の焼成室がバカでかくできたのは、構築材であるトンバイ(耐火レンガ)を窯全体に使えるようになったためであって、別に鍋島藩窯跡が特別ってわけじゃないです。でも、さすがに17世紀中頃だと、トンバイは焼成室の奥壁に使う程度なので、そんな大きな窯は造れない。つーわけで、焼成室規模を大きくして生産量を確保するって案はバツです。

 そうすると、藩が複数の窯で焼成室を分散して所有するか、不足分を民窯で調達するかってことになりますが、そもそもこの岩谷川内山時代に鍋島様式はまだ確立してないので、御用品専用様式というものは存在しないわけです。だったら、別に御道具山だけで生産しなくても、まわりの窯場からいいやつ調達してくればいいだけでしょ。これこそザ・御用品ってスタイルは、まだないわけですから。OEMってやつですね。リスク分散、開発コスト削減、ラインナップ充実ってとこかな。やっぱ、自前で複数の窯を持つのはリスクが大きすぎますよ。それに、前回もお話ししたように、窯を増やせば大トロ以外をさばいてくれる人探しとか、さばける体制も構築しないといけませんしね。それから、一から十まで善兵衛さんとこで、開発から試作、生産までやってたら、人もコストもかかりますしね。

 そんなことするより、支店長の喜左衛門さん名で、「御用品にすっからこんなん作ってや」って注文すればいいだけですよ。既製品の中にも使えるのあるかもしれないし。だって、高級品から下級品まで、何でも揃うのが有田ですからね。

 これなら、少し前にお話しした江戸城の発掘調査で、松ケ谷手以外にもいろんな窯の製品が出土しているのにも矛盾しませんしね。

 いかがでしょうか?今日は何も進みませんでしたが、だんだん“藩窯”のイメージがグチャグチャになってきたんじゃないでしょうか?でしょうね。じゃー、次回はその辺について整理してみたいと思います。(村)

 

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