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有田の陶磁史(370)

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   前回は、“藩窯”って呼ばれているけど、実際は民窯の中のまん中あたりの焼成室を藩が所有権を持ってるだけで、例年献上がはじまって以降は、“藩窯”なるものでは賄えない部分は、民間委託した可能性が高いんじゃないですかねって話をしてました。続きです。

 でも、そうすると、ますます“藩窯”って何ってなってしまいますが、しつこいようですが、“藩窯”って用語を使うから、どうしても登り窯のことをイメージしてしまいがちなんですね。でも、そもそも“藩窯”なんて当時使われていた名称じゃなくて、研究の過程で創作された言葉ですからお間違いなきように…。

 じゃ~、考えてみてください。

 今は、いろんな製品に貼り付けられてるラベルとかに、老眼には絶対見えないくらいのミクロな大きさで、いろんなことが書かれてますよね。その中に、生産者なり販売者なんかも書かれてますが、その所在地って、普通は実際に製品を製造している工場の所在地じゃなくて、管理部門のある場所が書いてあるでしょ。

 だったら、佐賀藩御道具山支店の場合は、支店長の喜左衛門さんがいる管理部門が御道具山の所在地であって、善兵衛工場長が仕切る工房や登り窯のあるところじゃないってことになりませんかね~?つまり、御道具生産を管理するお役所。

 いや、もちろん両方が同じところにあれば問題ないんですよ。でも、仮に別々なところにあった場合は、支店長のいる場所が優先されるってことです。つまり、御道具山っていうのは、登り窯のある場所のことじゃなくて、言ってみれば、副田支店長が事務所を構える場所ってことになりませんか。

 まだシックリこないという方のために、もうチビッと別の説明をしますね。さっきお話ししたように、もともと“藩窯”という言葉はありません。当初は“御道具山”です。“藩窯”だと登り窯をイメージしてしまいますが、“御道具山”だとどうですか?これだと、“岩谷川内山”、岩谷川内の山、つまり窯業地って言ってるのと同様ですから、御道具山は御用品を生産した場所って意味で、別に登り窯や工房だけを指すわけではないのはお分かりでしょうか。

 でも、まだすっきりこない?まあ、お待ちください。重要なのはこの次です。この“御道具山”ですが、実は、その後名称が変わっています。『源姓副田氏系圖』によると、例の五郎七さんの弟子だった初代喜左衛門日清さんを継いだのが清貞さん、その次が清長さんで、その代のことですが、ここに「延寶年中御道具山大川内へ移居」とあり、「御道具山役相勤」と記します。そんで、この方は延宝6年(1678)に亡くなったことになっています。それを継いだのが喜左衛門政宣さんって方なんですが、この方の勤め先の名称は「御道具山」ではなく、「大川内御陶器方」に変わっています。なので、素直に考えれば、延宝年間に変化があったってことでしょうね。まあ、年代についてはその内また詳しくお話しすることもあると思うので、ここでは置いときますが、「大川内御陶器方」って、どう考えてもやきもの工場のことじゃなくて、お役所の名前でしょ。ならば、その前身である御道具山も、やっぱ役所、つまりここで言うところの、喜左衛門支店長のいた佐賀藩御道具山支店のことってことになるでしょ。

 と、長々と重箱の隅をつついたのには当然訳があるんですが、長くなるので続きは次回。(村)

 

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