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有田の陶磁史(371)

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  前回は、ダラダラと屁理屈こねくり回して申し訳ありませんでしたが、「御道具山」って、実は善兵衛工場長のいる現場の方じゃなくて、本質的には副田喜左衛門支店長がいる佐賀藩御道具山支店の方を指してるんじゃないかって話をしてました。つまり、窯場じゃなくてお役所ってことです。

 ところで、前回『源姓副田氏系圖』に記された副田家の役職継承についてちびっと触れましたが、たとえば、例の五郎七(B)さんについては初代喜左衛門日清さんの項に記されているもので、系図ですからまだ続きがあって、天保4年(1833)に大河内御陶器方手伝役を仰せ付けられた孫三郎敷雅さんまで、副田家歴代が記されています。その中で、初代喜左衛門日清さんの記述の続きには、以下のように記されています。

 「附承應萬治年中迠御道具山岩谷川内ニアリ」

 つまり、承応(1652~55)、万治(1658~61)年間まで御道具山は岩谷川内にあったってことで、ちなみに、承応と万治の間には、明暦(1655~58)が挟まります。前にお話ししたとおり、御道具山自体は正保4年(1647)までには成立していそうですので、ここでいう承応とは、試運転を終え慶安4年(1651)12月に徳川家光さんが内覧した後、例年献上がはじまった御道具山本格スタートの年だと考えられます。

 じゃー、明暦から万治頃って、何があったか覚えてらっしゃいますでしょうか?そうです。内山の窯業の再編に端を発する、有田の窯業の大シャッフルにより、内山、外山という概念ができたり、内山に赤絵町が成立したりした頃です。つまり、この再編に伴い、御道具山も移転したってことです。

 問題は岩谷川内山からどこに移転したのってことです。系図によれば、初代喜左衛門日清さんは、承応3年(1654)に亡くなっており、岩谷川内に葬られたことになっています。なので、現在大川内山に「陶工無縁塔」と呼ばれる無縁墓標を880基くらいピラミッド型に積んだ供養塔がありますが、その中に副田家の墓も含まれるんですが、日清さんのものは確認されていません。

 それを継いだ喜左衛門清貞さんですが、「御道具山役相勤」の記述の後に、「寛文年中御道具山南川原へ移」となっており、寛文7年(1667)に亡くなって、墓所は南川原にあるけど、大川内山の墓所に石塔があることが記されています。この南川原の墓所は確認されていませんが、大川内山の供養塔では清貞さんの墓標も確認されています。

 そして、前回も少しご紹介しましたが、それを継いだ清長さんの項目では、やはり「御道具山役相勤」として、「延寶年中御道具山大川内へ移居屋敷永代御免地ニ被 仰付」となっており、ここからはずっと大川内山に住むことになったとします。先代の清貞さんは寛文7年に亡くなってますので、清貞さんが南川原山から大川内山に移ってきたことになります。

 ゴチャゴチャしてるのでまとめると、系図によれば、まず日清さんが岩谷川内山で御道具山役を務め、その没後は清貞さんが引き継ぎ、その代の途中の寛文年中に御道具山が南川原山に引っ越しになった。そんで、その清貞さんが亡くなったので、清長さんが引き継いで、その代の途中の延宝年中に御道具山が大川内山に移ったってことになります。

 さて、本題はここからなんですが、長くなりますので、続きは次回。(村)

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