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有田の陶磁史(372)

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   前回は、『源姓副田氏系圖』によれば、御道具山は承応(1652~55)から万治(1658~61)の間は岩谷川内山にあり、寛文年間(1661~73)には南川原山に移り、そして延宝年間(1673~81)には大川内山に移転したって書いてあるって話をしてました。でも、よく考えれば、さすがにそんなに都合良く年号の節目ごとにぴったり移転したなんて信じらんないですよね?

 まあ、猿川窯跡も、同じ岩谷川内山で類品を焼いている岩中窯跡も芙蓉手皿とか、ごく少量ですが欧州向けの製品なども出土しますので、1660年代初頭頃までは、窯が続いていた感じです。だったら、普通考えたら、御道具山の南川原山移転は、寛文のはじめ頃って可能性が高いでしょうね。ピッタリ寛文元年ってこともなくはないってこと…。でも、前回お話ししましたが、初代の日清さんを継いだ喜左衛門清貞さんが亡くなったのが寛文7年(1667)で、墓所は南川原にあることになってますので、それ以前であることは間違いないと思います。大川内山に移ったのもぜんぜん分かんないですが、延宝の早い時期である可能性は高そうです。あっ、そう言えば、ちまたでは延宝3年に移ったってまことしやかに記されているものを時々見かけますが、それってたぶん昭和11年(1936)発行の例の中島浩氣『肥前陶磁史考』が元ネタでしょうね。この中島さんが、どっからその年号拾ってきたのかはよく分かんないんですが、少なくとも江戸時代の古文書にそんなこと記しているものないですからね。だから、そう書いてある活字や年表があったら、あっ、こいつちゃんと調べてね〜なって思った方がいいかもですよ。

 まあ、それはいいとして、というように『源姓副田氏系圖』に基づくとこんな感じの流れになるわけで、御道具山移転について記す文献史料はこれしかありませんから、かつては岩谷川内山から南川原山、そして大川内山へって捉え方が一般的でした。ところが今日では、別な捉え方がニョキニョキと頭角を現してきたってか、そうみたいだと思われている方が多いような…?そうです。南川原山を挟まずに、岩谷川内山から直接大川内山移転って捉え方です。

 この根拠とされているのは、考古学的な発掘調査の成果です。岩谷川内山で芽吹いた技術が直接継承されているのが、大川内山と考えられるからです。もちろん、別に考古学的成果だからってわけじゃないですが、この技術移転に関しては寸分の異論もございませんよ。祥瑞色の強烈な岩谷川内山の技術は、有田の窯場の中でも相当異色ですから、移転先を推し量ることはそう難しいことじゃありませんから。そんで、その移転先である大川内山の日峯社下窯跡で、いわゆる初期鍋島と言われるものが出土してるってことなんで、じゃー、もう決まりやん…ってとこですかね~。つまり、御道具山は岩谷川内山の猿川窯跡から、大川内山の日峯社下窯跡に移転したって…。今は、これが世間で一番まかり通っている説ですかね~??

 でもね~、本当にそうなんでしょうか…??っていつもながら、素直じゃないですね。でも、つーか、それ証明になってます…??このブログで、何度も、繰り返し、しつこく、ねちっこく説明してきたのはこの布石ってことでもあるんですが、鍋島様式の製品が出土することと、御道具山がそこにあったこととは、そもそも本来別次元の話だってことはお分かりいただけますでしょうか?だって、鍋島様式ってあくまでも製品のスタイルのことであって、本質的には御道具山の所在とは何にも関係ありまへんがな。たとえ、それが御道具として使われたとしても、別に御道具山自体は別のとこにあってもいいわけでしょ。そう、御道具山支店の喜左衛門支店長のいるとこって意味です。

 ということで、岩谷川内山から直で大川内山ってことの証拠とされてるもんに、とりあえず疑問を挟んだところで、本日は止めとくことにします。(村)

 

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