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有田の陶磁史(396)

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   前回は、大川内山の窯業について、ちびっとまとめとくというか、おさらいしとこうということで、その途中で終わってました。内山の窯業の再編がらみで、高級量産品の産地としての内山を基準として、その上の最高級品を焼く人も中・下級品を焼く人も窯業地の西側に移され、内山、外山という区別ができ、これを契機として大川内山も窯業地として新設されたって話をしてました。

 これによって、山ごとによる、製品ランク別生産に変わりました。いや、内山は別ですよ。あそこは、実質的に丸ごと一つの山みたいな扱いですから。

 内山より高級品焼くところは、南川原山と大川内山ですが、南川原山は全部高級品焼くところ。つーか、下南川原山に既存の南川原窯ノ辻窯跡、新設の平床窯跡、柿右衛門窯跡があって、上南川原山にも既存の樋口窯跡があったわけですが、最初の頃はそんなメチャクチャ高級品ばっかってのは、柿右衛門窯跡だけなんですけどね。楠木谷窯跡でバリバリの古九谷様式焼いてた人だけじゃ、そんなに何窯も必要ないですから…。それに、最高級品の山ってことになる直前まで、有田でも頭一つ抜けたくらいの最低級品を作ってた場所ですから、さすがにいきなりはムリです。まあ、ほかは内山と同等か、まあちびっとくらい高級って程度ってとこですが、段々柿右衛門窯跡側に引っ張られて最高級品の山って体裁が整ってくるんですよ。

 一方、大川内山はお話ししたように、一番上と一番の下の組み合わせで、まん中スッポリ抜けてて、技術が混じらないようになってたわけです。まあ、組み合わせっても、ほとんどは下の方なんですけどね。日峯社下窯跡、御経石窯跡、清源下窯跡ともに、ちーとばかし高級品焼いてる人たちがいて、後は全部下の下。だから、一般の方々の中には多大なる幻想を抱く方も多々おられますが、山の位置付けとしては、あくまでも下級品の産地です。

 そんで、大川内山の3窯ないしは清源上窯跡を含めた4窯がほぼ一斉に開窯して焼いてたわけですが、その中の日峯社下窯跡で、現在鍋島様式と呼ばれている種類の製品が完成するわけです。

 もちろん、これは御用品として使われた可能性は高いですが、世間のジョーシキとは違うかもしれませんが、本ブログの説によれば、御道具山とは関係ありませんよ。御道具山とは、あくまでも、藩の御道具山支店が置かれていた場所で、支店長の副田喜左衛門さんがいた所のことですから。たぶん、寛文のはじめ頃には、岩谷川内山から下南川原山に移ったんじゃないですかね。

 その頃には、まだ御道具専用の様式ってのが確立してなくて、藩でも柿右衛門窯跡だと思いますが、登り窯の一部屋は確保してたけど、必要に応じて、民間からも調達してたんだと思いますけどね。藩窯って言葉を使うので誤解してしまいますが、藩が使用していても、あくまでも窯としては民窯ってことですのでお間違いなく。

 つーことで、本日はここまでにしときますね。(村)

 

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