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有田の陶磁史(401)

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   前回は、大川内山のことをお話しする前の話を、思い出し、思い出し、何となくお話ししてました。続きです。

 内山の窯業の再編をはじめた時の責任者である皿屋代官は、ここではおなじみの山本神右衛門重澄さんです。寛永14年(1637)の窯場の整理・統合以来、数々の施策を強行して、運上銀がメチャクチャ儲かるシステムに作り替えたことで、最初はまったくお殿様なんかには相手にされてなかった窯業を、藩の正式な産業にまで押上げました。

 以前お話ししましたが、このやきものから上がる運上銀は、米などの大物成(年貢)に対して小物成と呼ばれた雑税として扱われ、藩内では米に続いて儲かるもんにまでなったわけです。な~んだ?米の方が儲かったんじゃないの…?って声が聞こえてきそうですが、そりゃね~、米は藩内全体で作るけど、やきものは狭い狭い有田のそのまたごく一部の場所で、ほとんど集中的に作ってるわけですよ。そりゃ、生産効率から言ったら破格ですよ。

 それに大物成である米は、佐賀藩は35万7千石って公開されてますから、別にごまかさなくてもいいですけど、ごまかせないわけですよ。でも、小物成の方は、別にごまかしてるわけじゃないですけど、少なくとも佐賀藩の場合は、藩主の身の回りのことや軍事費などに使われてて、軍事費ですから、当然公開なんてしないですよね。いくら軍事費持ってるかなんて分かったら、速効攻められますわ。だから、裏で回せるありがたい大事な予算なわけです。毎度のことですが、何しろ佐賀藩は超極貧ですからね。

 そのことは、ヤマモトさんも重々承知なわけですよ。だって、こないだお話ししたように、正保4年(1647)に皿屋代官に任命するって、江戸のお殿様からのお手紙が届いた時、ヤマモトさんは長崎で借金返して、また新しい借金してくるって重要なお役目の出張してたくらいですからね。37万5千石って言えば、頭から10番目くらいですから、藩としてはかなり大きい方だったわけですが、実際には、すでに江戸の前期から自転車操業してたわけで、稼げるもんなら、何としても稼ぎたいわけです。

 だから、ご奉公第一のヤマモトさんは、寛永12年(1635)に横目って現地の監督官みたいな役職で有田に関わるようになってから、やきもの生産の現場をつぶさに見て、こりゃうまくやればいけるぞって早くから見抜いていたので、最初は藩主の勝茂さんを騙してもまでも、窯場の整理・統合みたいなムチャクチャなことも、何のためらいもなくやっちゃって、最初の運上銀の爆上げに成功したわけです。

 なので、有田のやきものの成功は、よく「トーコーガーっ!!」なんて言われたりしますが、まあ、生産者である陶工の功績ももちろんあるわけですが、実際には、このヤマモトさんみたいに体制構築に大ナタ振るえる人がいて、はじめて儲かるシステムができるってことです。だって、ご同業者をこれでもかってくらいに集約した場所ですよ。それぞれの利害関係がありすぎて、何かしようとしても絶対話がまとまらないから、何も進まないって。

 まあ、ということで、本日はたわいのない話で終わりましたね。また次回。(村)

 

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