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有田の陶磁史(402)

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 前回は…、“も?”…、たわいもない話に終始してました。どうも、佐賀藩の極貧話から抜け出せませんね。…親近感あるからかもしれませんけど…?

 さて、海外輸出の拠点にすべく、内山の窯業の改革に端を発して、結局有田の窯業の大再編に繋がったわけですけど、まあ、当然、偶然ってわけじゃなくて、最初から狙ってやってたんでしょうけどね。

1650年代前半頃には、中国船に限らずオランダ東インド会社も加わって、東南アジア向けの輸出が行われていたわけです。どちらかと言わなくても、やや粗質な製品が多い東南アジア向けは、従来からの主力である初期伊万里様式の技術でも何とか対応ができたわけですが、でも、いよいよ大きな利ざやを望めるヨーロッパ向けを意識しはじめると、そういうわけにもいきません。

 もともと、バリバリの景徳鎮磁器が運ばれていたわけですから、まさか、スタイルも質も、施文ルールなんかも大違いな初期伊万里じゃ、エルメスのバッグの代わりに、100均のバッグを売り込むようなもんですからね。そりゃあ、バッグ…、いや磁器には違いないですけど、まさかヨーロッパの王侯貴族は、100均のバッグはありがたがらないでしょ。ちょっと客層が違い過ぎますね。

 しかし、しかし…、そこで登場するのが、真打ちの古九谷様式ってわけです。もともと、景徳鎮に追い付け追い越せって目的で開発されたもんで、製品のスタイルや施文ルール、質も同様に整えて、色絵まで加えたわけですから、エルメスに対して、そりゃルイ・ヴィトンみたいなもんですわ。景徳鎮に負けず劣らずってとこですね。

1640年代の中頃から後半に開発され、ちょうど1650年代の前半頃には、ほぼ有田全域に普及してましたので、まさにタイムリー。これを利用すれば、その頃には中国の撤退でポッカリ空いていた磁器の市場にもスッポリと収まるって寸法です。

 でもね~。なんぼ技術は確立しても、そう簡単にはいかないんだな~、これが…。たしかに、個々の製品自体は、景徳鎮と同等品が作れるようになったけど、じゃー、大口のお客さんの需要を賄えるだけの、数は準備できるのってことになるでしょ。細々と営んでいる町工場に、完全オートメーション化された大企業の工場並の発注かけても、質は担保できても量はこなせないわけですよ。

 なので、大量発注が来てから準備したんでは、とても間に合わないってか、そもそもそんなとこに注文きませんわ。だったら、もちろん注文の可能性についてのリサーチはしとかなくちゃいけませんが、あらかじめ生産体制を強化しとく必要があるでしょ。それで、1650年代中頃から実施したのが内山の再編ってわけです。

 ってな具合で、本日は極貧話じゃなくて、やっとマジ話の助走段階に入りましたが、まだ長くなりそうですので、続きは次回ということで。(村)

 

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