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有田の陶磁史(403)

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   前回は、古九谷様式の開発によって、景徳鎮と同質、同タイプの肩を並べる製品ができるようになり、いよいよ技術的にはヨーロッパ輸出にも対応できそうってなったって話をしてました。そんで、でもね~、なんぼ質やスタイル的には景徳鎮磁器に匹敵するもんができても、じゃー、ドバッと注文きたらどうすんのよ、そりゃいきなりは生産はムリでっせってことで、1650年代中頃からせっせと取りかかったのが内山の再編ってことでした。

 これを主導したのは、もちろん、このブログでは大エースの初代皿屋代官山本神右衛門重澄さんですよ。智恵もあるし胆力もあるし、まさにスーパースター。しかも、日ごろから、独りでできることは知れてるので、自分は食わなくても、いい人材集めに銭を使うことをモットーとしていた人ですから、記録には現れませんけど、きっとチーム神右衛門はゴッツ優秀だったはずですよ。

 このヤマモトさんですが、残念ながら明暦2年(1656)には、代官ほかを引退しちゃうんで、再編を最後までは代官という立場では見届けてないんですよ。せっかく前年には、後には「着座」って名称に変わる、「長袴の人」っていう、まあ佐賀藩の重役会議に出れる平取締役みたいな身分にまで出世してるんですけどね。しかも、代官引退から2年後には、69歳で体調を理由に完全引退で隠居しちゃうことになったわけです。まあ、もうじき70歳なので、そんなにあくせく働かなくてもいいんでしょうけど…。でも、もともと藩のために働きたくてしょうがない人ですからね。本当はもっと働きたかったんだとは思いますよ。

 でも、前から五体満足ってわけでもなかったみたいですしね。寛永14年(1637)に例の島原の乱ってのが起こってますが、当然佐賀藩もってか、許しもないのに勝手に抜け駆けして突っ込んで、幕府に怒られてるくらいですけど、そん時に、大けがして、耳も聞こえにくくなってるし、たぶん片足も失ってたみたいです。なので、ヤマモトさんは、駕籠で移動することを許されてますし、承応元年(1652)には、「乗物」って、あの時代劇なんかでよく殿さまとかご家老さまとかが乗ってる駕籠の豪華なやつ、あれを許されてるんですよ。もちろん「長袴の人」になる前ですから、よっぽど藩にとって功績のある人物だったってことでしょうね。

 まあ、もっとも体調が悪くて引退したはずのに、70歳になった万治2年(1659)には、また子どもまで生まれているんですから、ほんっと元気な老人には違いないですね。一応、お恥ずかしい限りでとは言ってますけど…、ちなみに、その子どもとは、例の「葉隠聞書」の山本常朝のことです。恥ずかしいので、塩売りか麹売りにくれてやれって言ってたんですけど、なんせ神右衛門の名を継ぐことになる人物ですから、くれてやらなくて良かったですね。結局、ヤマモトさんは80歳まで生きてますから、当時としては、結構長生きだったようで…。

 って、今日もどうでもいい話になってしまいましたが、つまり、この内山に端を発する有田の窯業の大改革は、ヤマモトさんの最後の置き土産みたいなもんなわけです。このヤマモトさんは、有田関連の歴史の記述で取り上げられることはほとんどありませんが、本当は、最大の功労者でしょうね。だって、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合にはじまって以来、有田の窯業の生産制度は、ほとんどヤマモトさんが築いたわけですから。1650年代中頃からの再編でも、内山にとどまらず、有田全体の製品ランク別の制度を構築したわけですが、これって、その後19世紀まで150年間くらいも維持された、生産の根幹をなす制度なので、まさに、有田の窯業はヤマモトさんの作品みたいなもんなわけです。

 つーことで、本日はここまでにしときますね。また、次回。(村)

 

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