前回は、山ごとの製品ランク別生産になって、「最高級品」「高級量産品」「中級品」「下級品」の別ができたけど、実は、中級品の生産山って、上の部分は高級量産品、つまり内山と同じようなもんを作っていて、つーか、内山の生産品の質幅の中で、相対的に下の部分と、ほぼ質差はなくて…、だって、必ず一部重ねとかないと、製品の質差のすき間ができてしまうわけでしょ。ちなみに、これはほかのランク間でも同じことですよ。そんで、中級品の下の部分は下級品と質差や様式差がなくて、つまり、じゃー、ザ・中級品って何なのよってことで、ほとんど存在感ないんですよね~って話をしてました。
そのため、下級品の山にはワンサカ窯場ができて、もともと内山は、山の集合体なので窯数はいっぱいあるし、あの南川原山でさえも、ランク別生産になった当初は、下南川原山に南川原窯ノ辻窯跡、平床窯跡、柿右衛門窯跡と3つも窯場があって、上南川原山の樋口窯跡を含めると4つ窯場があったんですよ。なのに、中級品生産の外尾山や黒牟田山には、それぞれ外尾山窯跡、多々良の元窯跡の1つずつしか窯場がなくなっていたってことです。じり貧。
だって、南川原山は上はもう競合山はないので、ほぼ大名とかからの注文品みたいな利ざやのデカイやつを独り占めだし、下は内山と同じようなもんを作ってるし、別に外山自体色絵が分業化されたわけじゃないので、国内外向けの色絵も生産するし、まあ、なかなかオイシイ位置付け。
内山だって、チビッとは南川原山におこぼれはあげてるけど、何しろ単独の山とは規模が格段に違うので、ヨーロッパ向けはほぼ独占状態だし、中級品以下の山では色絵はしてないので、東南アジア向けの色絵まで生産してるわけでしょ。
下級品の山は、最高級品と真逆で、下に競合相手はいないわけなので、薄利多売で作って作って作りまくれば、まだまだ客層を広げる余地はいくらでもあるわけですよ。ところが中級品の山は、内山と下級品の山に挟まれて、勢力拡大する余地がないわけです。
たとえば、江戸なんて、天正18年(1590)に徳川家康が関東移封になって江戸城に入城した頃なんて、葦が茂る湿地帯で、民家が点々とある程度の未開の地で、土地が狭くて率いてきた家臣団を住まわせる場所にも事欠いたっていいます。だけど、慶長8年(1603)に征夷大将軍になった後は、各地の大名に命じて大規模な江戸の市街地普請を行わせたことで、慶長年間のうちには江戸三百町と呼ばれるまでになったわけです。そんで、寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、大名とその家臣なんかが大量に押し寄せてくるわけですから、寛永末期の1640年代前半頃には、江戸八百八町と呼ばれるまでに膨れあがったわけです。
こりゃ、オイシイお客ですよ。17世紀後半頃の江戸の大名屋敷の出土品を見ると、やっぱ大名とか上級武士が使うようなもんは、南川原山や内山の製品なわけです。しかも、小・中皿なんかは大半が南川原山製みたいなところでも、大きめの鉢だとか壺だとかは内山製ってわけです。両者にはちょっと精緻さや質差があるんで、一見後者は古めに見えたりするんですが、この差は年代差じゃなくて、生産した場所の差というか製品ランク差です。だって、南川原山ではあんまり大きなもんってほとんど生産してないですからね。必然的に、内山のもんを調達するしかないってことです。
一方、下級品の山の製品はといえば……なんですが…、長くなりそうなので、この続きはまた次回することにしますね。おしまい。(村)