前回は、各ランクの製品がどのような場所で消費されたのかという例として、江戸の話をしている途中でした。慶長8年(1603)に徳川幕府が成立して以来、江戸の市街地普請をせっせと大名たちにやらせるもんだから、慶長年間のうちには江戸三百町と呼ばれるようになり、寛永12年(1635)に参勤交代が制度化されると、寛永末期の1640年代前半頃には、ついに八百八町って呼ばれるまでに膨れあがったって話をしてました。
磁器なんて、当時はまだまだ高級品ですから、大名とその家臣だとかがドバッと集中的に集まってるとこなんて、やっぱおいしいわけですよ。遺跡の出土例を見ると、やっぱ大名さんだとか上級武士さんが使うようなもんは、南川原山だとか内山だとかの製品が一般的なわけです。下々が使うような…、まあ、この頃まだ下々なんて磁器は使えませんけど…、そういうのはほぼありません。
17世紀の製品ランクの創出方法は、特に17世紀後半では、原則的に様式差というかスタイル差だってことはお話ししたことがあると思います。つまり、より最新の技術・技法がたくさん盛り込まれているものがより上質な製品ってことです。
つーことはです。最高級品の南川原山製品の類品を、増幅させてバラエティも加えて量産したのが高級量産品の生産場所である内山ですので、両者には、技術・技法の洗練度の差はありますが、基本的に大きなスタイル差はありません。
つーか、たぶん知ってる人はほとんどいないかと思いますが、南川原山でも本当に上質な製品ってのは、ほとんど小・中皿なんかのたぐいであって、たとえば碗とかは通常はそれほどピカピカでありません。なので、南川原山の中でもバリバリ上質な製品を焼いた柿右衛門窯跡なんかには、ほとんど碗なんかはありません。その他の窯にはありますが、まあ、内山とほとんど変わんないつーか、たぶん、見分け付かないです。
ですから、南川原山と内山の製品ってのは、塊として比較すれば、たしかに質差はあるんですが、個々の製品だと、皿類を除けば、必ずしも識別できるわけじゃありません。でもねっ。南川原山と内山の組み合わせって、製品のスタイルや質がシームレスに繋がるので、全体を把握して理解しようとする場合でも、脳ミソ疲れないんですよ。ところが、逆に、下級武士なんかが住んでたところなんかは、こりゃ支離滅裂で生産状況ってもんを把握していないと、確実に脳ミソこんがらがります。
ってことで、今日はこの下級武士のところをお話ししようと思ってたんですが、前回と同じく、大名さんたちのところの話に終始してしまいましたね。次回は、この続きをしますね。(村)