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有田の陶磁史(416)

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   前回は、江戸の町には、磁器は寛永14年(1637)の窯場の整理・統合以前から少しは流通してるけど、流通量が増えるのはそれ以後、しかも1650年代くらいから目立つようになるんですよねって話をしてました。これは、寛永12年(1635)の外様大名に続いて、同19年(1642)の譜代大名まで参勤交代が制度化され、こういう過程で、町がどんどん大きくなっていったことに一つの要因があるでしょうね。基本的に、何も生産しない武士だけ増えても町が回るわけじゃないので、当然、町人とかも増えますしね。人が住めば、食器だとかやきものの需要が生まれますからね。それに、1644年には、中国で王朝交代があり、上質磁器であった中国製品まで入ってこなくなったわけですから、まさに、その頃から古九谷様式の開発によって、景徳鎮風スタイルを確立した有田磁器の天下ってとこかな。

 そんで下級武士さんちの話ですが、お殿さまや上級武士さんちは、基本的に南川原山や内山の製品の組み合わせに、場合によっては、古い骨董チックなもんがセットになっているっていうのが一般的ですが、下級武士さんちってのはそりゃ~ピンきり。

 たとえば、ちょうどいい具体例がありますのでご紹介しますが、それは、東京大学構内遺跡で、医学部附属病院入院棟A地点D面焼土として報告されてるものです。これは天和2年(1682)の火事で被災した、加賀藩邸内の長屋建物群に伴う瓦礫層で、こういうところには、主に下級武士さんとかが住んでました。半分屋敷の防壁代わりってとこですね。

 寛文5年(1655)に家中証人制度が廃止されますが、もともと、そこにあった証人屋敷が廃止された後に、長屋になったと言いますので、出土遺物は、寛文5年以降、天和2年の間という上も下も時期が限定できる貴重な例です。

 と、通常前振りはこれで終わるのですが、ここを覗かれる一般の方々にいきなり証人屋敷やら制度やらって言われても、そりゃ「??」ですよね。なので、簡単に説明しときますね。証人制度というのは、3代将軍徳川家光の時代に明確な制度として確立したもので、先ほど触れた参勤交代とセットで、武家諸法度(寛永令)で定められたものです。大名の妻子や重臣の子弟を証人として常事江戸に住まわせた制度で、よーするに人質ってことです。あ~あれのことかでしょ。大名の妻子を人質として江戸に住まわせたってのは、多くの方がどこかで聞いたことがあるかと思います。そんで、大名の妻子は、通常は上屋敷の奥向(奥御殿)に住んでますので、証人屋敷は主に家老クラスの重臣の子弟が住まわされていた場所です。こういう証人のことを家中証人と言います。そして、この家中証人制度が寛文5年に廃止されたわけです。つまり、大名証人とも呼ばれる大名の正室や嫡子は、引き続き江戸住みのままでした。

 そんで、この加賀藩邸の証人屋敷は、その後もしばらくは取り壊されることなく、聞番や足軽などが住んでいたそうです。足軽はいいとして、聞番??ありゃ?また、意味不明な用語…かなっ?説明ばかりになりますので、簡単に済ませておきますが、聞番とは「ききばん」と読み、幕府や他藩との連絡や交渉の窓口を務めた役職です。平士の位ですが、聞番に就任すると、「物頭並(ものがしらなみ)」という格式が与えられて、中堅幹部の入口くらいの格式になったそうです。

 ということで、この長屋跡の瓦礫層からどういうものが出土しているかってことですが、用語説明してたら長くなったので、本日は、とりあえずここまでにしときますね。(村)

 

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