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有田の陶磁史(418)

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   前回は、東京大学構内遺跡の加賀藩邸の長屋建物群の住人などについてお話ししている最中でした。「表長屋」と「内長屋」に分かれており、通常の大名屋敷なんかでは、内長屋に偉めの人が住んでることが多いのですが、加賀藩邸の場合は、表長屋には中級武士入門格くらいの聞番など長屋の住人としては偉めの人が住んでいて、内長屋は大部屋になっていて足軽以下の人たちが住んでいたと推定されているってことでした。

 この表長屋って、本当に屋敷地の外壁代わりみたいなもんですから、一部はちゃんと門が設けられています。まあ、いざという時のためには、ほかの大名屋敷と同じように、この表長屋に下級武士とかを住ませるのが本筋ではあるんでしょうが、さすがに百万石の大名で、江戸詰めの藩士も多いですから、表長屋を割り当てると人数を収容できなかったんでしょうね。

 この長屋建物群は、以前お話ししたように、証人制度の廃止以降に建てられたものですから、上限は寛文5年(1665)になります。もちろん、出土遺物としては、証人屋敷期やそれ以前に廃棄されたものや、長屋建物群成立以前からどこかで使っていたものが持ち込まれることもありますので、それ以前のものが含まれる可能性はあります。そして、天和2年(1682)の火災で焼失してますから、下限はその年ということになり、理論上は、当該土層にはそれ以後の遺物は含まれないことになります。

 という前提のもとで、出土陶磁器についてお話しすると、前回ご紹介した出土品を考察した埋蔵文化財調査室の成瀬さまの資料によると、この長屋建物群は他の藩主や上級武士が関わった可能性の高い場所と比べて、圧倒的に磁器に比べて陶器の割合が高いことが報告されています。出土量の多い碗・鉢で約8割、皿で約4割が陶器だそうです。その内、碗の約6割が肥前陶器で、内訳は約7割が呉器手碗、2.5割が京焼風陶器碗、その他が0.5割だといいます。

 呉器手碗とは、李朝の下級白瓷碗を摸したもので、クリーム色とか淡い緑色の釉薬がかかり、高台が高めとかがっちりしているのが一般的で、高台内まで施釉するのが特徴です。そうですね。茶の湯で使う李朝茶碗をイメージしていただければ分かりやすかも?1620〜30年代頃から作られはじめ、30年代後半前後が一番多いかな。この頃のやつは陶器質も磁器質もあります。もちろん、17世紀後半のものはそういうもんとは別モノで、もっと大量生産になり、高台も17世紀前半のものと比べるとそれほどがっちりはしてなくて陶器オンリー。下級武士さんが使うくらいですから、もちろん別に茶の湯用じゃないですよ。

 また、京焼風陶器碗とは、呉器手碗と同様にクリーム色の釉薬や淡い緑色の釉薬のかかる碗です。ちなみに、この釉色の違いは、質差じゃなくて酸化か還元かの焼成差です。これも17世紀後半に爆発的に流行った碗で、京焼を摸して高台内に草書体の「清水」や、「福次」「善」ほかの篆書銘が押印され、胴部には楼閣山水文が描かれます。何しろ、ほんまもんの京焼より、はるかに広く多く流通してますからね。ただし、直接京焼の技術的影響はなく模倣しただけなので、「京焼系」ではなく「京焼風」と呼んでいます。京焼を摸しているので、肥前陶器としては例外的に、胴部の文様は呉須で描かれています。ただし、時期が下がってくると、肥前陶器に通例な鉄絵に変化して、高台銘もなくなり、だんだん山水と知ってなきゃ何の絵を描いているのか分からないようなもんになりますけどね。

 こういう17世紀後半の呉器手や京焼風の碗の出自は、例の大川内山です。御経石窯跡や清源下窯跡で出土しており、鍋島藩窯跡でも下層で出土しているので、御経石窯跡や清源下窯跡で作られはじめ、鍋島藩窯跡でも引き続きしばらく作られたってことでしょうね。後になると武雄などでもきったないのが作られますが、天和2年の火災層で出土するのは、おおむね大川内山の製品と考えていいだろうと思います。

 つーことで、出土した陶器の話をしてたら長くなってしまいましたので、続きはまた次回ということで…。(村)

 

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