前回は、東京大学構内遺跡の加賀藩邸の長屋建物群の、天和2年(1682)の火災に関わる土層から出土したやきものに関して、お話ししている最中で、見込み蛇ノ目釉剥ぎの技法について、引っかかっているところでした。
この皿などの見込み蛇ノ目釉剥ぎの技法は、肥前陶磁の場合、成立期の陶器には使われておらず、磁器の出現とともに現れてくる技法です。しかも、初期の陶器と磁器を一つの窯で併焼している時期であっても、磁器には使われますが、同時に焼成している陶器には用いられません。
しかも、その蛇ノ目釉剥ぎを用いる磁器の場合であっても、蛇ノ目釉剥ぎ単独で用いることはなくて、必ず同じ重ね焼きの技法である砂目を伴います。逆に、同じ施文の磁器皿であっても、蛇ノ目釉剥ぎはせずに、砂目だけのものは珍しくありません。別に、両方を用いなくても、どちらも重ね積み目的の技法ですので、目的が重複しますからね。肥前の技術の源流は李朝ですから、砂目が技術のパッケージに元から含まれるオリジナルな技法です。ですから、蛇ノ目釉剥ぎは、いわばオマケ。じゃー、なぜオマケが必要だったかと言えば、陶器にはなくて、当初から中国風を目指した磁器にだけ用いられるわけですから、そりゃ、中国風に見せるためですよ。別に用途的には必要なくても、何となく中国風に見えるじゃないですか。わざわざしなくていい蛇ノ目釉剥ぎをするわけですから、それだけ手間もかかるわけですから、本来のできるだけ安価に製造するための重ね焼きの趣旨からは外れてますもんね。装飾的な意味合いだから、下級品の生産効率に反するこういうムダも成り立つわけですよ。
そんで、この蛇ノ目釉剥ぎですが、覚えてらっしゃるでしょうか?寛永14年(1637)の窯場の整理・統合って事件を…。佐賀本藩の主力の窯業地である伊万里と有田の中で、826人の陶工を窯業界から追放し、伊万里の窯場を全部廃止して、有田では7か所を廃止して、有田東部の13か所の山に統廃合したって事件でした。
この時、有田では陶器生産を廃止して、磁器専業にします。また、磁器の中でも下級品であった重ね焼きするようなものも廃止します。つまり、有田ではいい磁器だけ生産するシステムに変わるわけですね。
ということはです。磁器の下級品がなくなるってことは、本日お話ししている蛇ノ目釉剥ぎするような製品もなくなるってことですよ。つまり、そもそも伊万里では窯場自体がなくなっちゃったわけですが、少なくとも有田の窯場でも、この技法はいったん途絶えてしまったってことです。
って記すと、じゃー肥前からなくなったんだーってすぐに早とちりする方が多いんですが、あくまでも窯場の整理・統合ってのは、佐賀本藩領の伊万里や有田などが適用範囲です。別段、他藩の窯場にまで佐賀本藩の政治的力は及びませんし、つーか、佐賀本藩の山であっても、本質的には磁器生産をどーすんべって施策なので、嬉野市の内野山あたりすら関係ありません。
なので、たとえば有田のお隣の波佐見だとか三川内だとか、武雄鍋島領の武雄だとかも、政策としては影響を受けたわけじゃなないですけど、でも、肥前の窯業の中心地である有田で止めたもんをいつまでも作り続けてても、過去の産物ですから、商品としては急速に価値がき損しますので、結果として、いつまでも作り続けてはいられないってことになります。なので、窯場の整理・統合頃までの主力であった、いわゆる溝縁皿なんかは、ほどなく肥前の窯場からなくなってしまったってわけです。でも、強制シャットダウンした有田みたいに、すぐになくなったとは限りませんよ。
それに、有田という窯業の中核地が、突如陶器生産から撤退したんですから、肥前の陶器生産は、もう糸の切れた凧状態になったってことですよ。束ねるところがなくなったので、それぞれ独自の道を歩むしかなくなったわけです。
何だか、今回はまったく本題には進めなかったような気もしますが、どうも書きはじめたらまだまだ終わりそうにもないので、とりあえず本日はここまでにしときますね。(村)