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有田の陶磁史(421)

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 前回は、また性懲りもなく、皿などの見込み蛇ノ目釉剥ぎ技法についてダラダラと話をしているところでした。でも、まだダラダラがぜんぜん終わってませんので、本日も続きの話をさせてください。

 見込み蛇ノ目釉剥ぎは、そもそもは、ご承知のとおり重ね焼きするための技法です。ところが、肥前の近世窯業の場合は、そのそもそもが違うんだな~。つーのは、前回もお話ししましたが、「ないよりは、あった方が中国磁器っぽいよねっ!」、つまり、重ね焼き技法としての用途は皆無で、装飾技法としての意味合いではじまったものです。なので、蛇ノ目釉剥ぎはしようがしまいが、重ね焼きする際には、陶工が本来持つ李朝の技術のパッケージに含まれる、砂目が用いられます。よーするに、同時期の陶器には用いない磁器専用の技法であること、また、本来の用途である重ね焼き技法として成立したのではないというところあたりがミソです。

 ただし、この磁器専用の装飾技法としての蛇ノ目釉剥ぎは、有田では寛永14年(1637)の窯場の整理・統合際に、陶器とともに下級磁器の生産からも撤退してしまいますので、途絶えてしまいました。もちろん、蛇ノ目釉剥ぎすること自体は、すでに情報としては、伊万里や有田以外の窯場にも伝わってますので、窯場の整理・統合の政治的強制を伴わない伊万里や有田以外の窯場では、やろうと思えばしちゃーいけないわけではありません。でも、実際には、これがそれですってモンには、これまでのところ出会ったことはありませんけど…。

 ところが、意外なところで、この見込み蛇ノ目釉剥ぎの技法は復活しました。それは、同じ佐賀本藩ですが、嬉野市の内野山です。この内野山には、北・南・西の3つの窯場があり、江戸初期から近代まで操業し、最後は明治21年(1888)から昭和初期の、北窯跡と範囲が重なる源六焼まで続いた窯場です。今回はますます脱線するといけないので源六焼の話はあえてしませんが、富永源六という人の登り窯跡です。

 北・南・西ともに、おおむね焼いているものは同様なのですが、九州横断自動車道建設に伴い佐賀県教育委員会によって、一番大々的に発掘された北窯跡の調査の際に、出土遺物は(1)期~(5)期に区分されています。(1)期は第2四半期頃で、上限は1610年代。(2)期は17世紀後半、(3)期は17世紀末~18世紀前半、(4)期は18世紀後半~19世紀前半、(5)期は明治10年代から先述した源六焼の時期とされています。

 残念ながら、この北窯跡では窯体は発見されていませんが、物原が検出されており、たくさんの遺物が出土しています。でも、この調査は開発目的なので、更地の状態から発掘できるのでいいんですが、普通は、ほんっと嬉野の発掘調査って、見てても涙ぐましくなるくらいスゴいんですよ。だって、茶畑だらけなので、ずらっと茶の木が植えられた畝と畝の間の畝間に試掘溝を設けないといけないので、狭い狭い。お茶の枝痛いですしね。

 内野山では、本格的に磁器が焼かれはじめるのは天明9年(1789)以降ですが、南窯跡の調査では17世紀中頃、時期区分では(2)期頃の日字鳳凰文皿などの染付磁器が少しだけ出土しています。

 この17世紀中頃の磁器創始と聞いてピーンってきた方は、なかなかおぬしやるなってところですが、まあ、例の九谷や姫谷、同じ嬉野市の吉田2号窯跡とかと同様に、有田の窯業大再編の時にあぶれた人たちによるものでしょうね。

 つーことで、本日は出土品の説明まではできませんでしたが、とりあえずここまでにしときます。(村)

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