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有田の陶磁史(422)

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   東京大学構内遺跡の加賀藩邸の長屋建物群について、天和2年(1682)の火災に関わる土層から出土したやきもの、つまり下級武士の屋敷から出土しているもののお話しをしている最中でしたが、目下のところ、恒例の脱線中で、皿などの見込み蛇ノ目釉剥ぎの技法について、あれこれ深~くお話ししているところです。前回は、嬉野市の内野山窯跡について触れている途中でした。

 内野山窯跡は、1610~30年代頃から近代まで続いた窯場跡で、北・南・西の3か所に窯場が分かれています。あまり、焼成している製品に違いはないですが、天明9年(1789)には本格的に磁器も生産されはじめますが、南窯跡では1650年代中頃以降の、日字鳳凰文皿などが出土しており、北窯跡でも磁器がチビッと出土しているらしいですが、報告例はなく詳しいことは分かりません。

 とりあえず、そういう風に一時磁器の生産も行っていますが、基本的には陶器の窯場です。この窯場跡でおもしろいのは、北窯跡の例で説明すると、前回1~5期に時期区分されてるって話をしましたが、17世紀第2四半期頃を想定され、上限が1610年代とされている1期の出土品(写真)には、2期の混入品の可能性のあるものを除けば、蛇ノ目釉剥ぎの技法が使われているものがないことです。皿の器形的には、有田なんかでもおなじみの砂目積みの溝縁皿や、その他同じく砂目積みの折縁皿や縁を折らない丸皿などいくつかの種類がありますが、砂目積みはするけど、蛇ノ目釉剥ぎはしてません。これは、磁器には蛇ノ目釉剥ぎするけど陶器にはしないという、初期の生産のルールどおりです。

 砂目積み溝縁皿は、たぶん元祖は有田の小溝上窯跡で、それが磁器技術の拡散とともに、肥前各地に広まったものです。1610年代中頃に作られるようになり、だんだん皿のほとんどが溝縁皿に限定されるようになり、有田では寛永14年(1637)の窯場の整理・統合で、陶器生産の廃止とともになくなってしまうものです。ただし、前回も少し触れましたが、これは佐賀本藩の有田と伊万里の話ですから、他の地域では、もう少しは残っていても不思議ではありません。でも、時代遅れの商品ですから、そんなに長々とは残りませんけどね。

 それで、内野山下窯跡では出土してないのですが、南窯跡では、胎土目積みの折縁皿なども出土しています。世間の常識(?)では、胎土目積みが古くて砂目積みが新しいことになってますが、まあ、有田ではおおむねそうですが、どこでもそうかと言えば、必ずしもそんなことはないです。間接的に技術が拡散しているので、古い技法も新しい技法も、ぐちゃぐちゃなのがむしろふつーです。

 たとえば、同じ嬉野市に大草野窯跡という窯がありますが、ここでは、溝縁皿ですが、鉄絵を描いて、胎土目積みするもんなんかも出土しています。溝縁皿は砂目積み段階の器形で、ルール上は鉄絵は描きませんが、その技術が拡散する過程で、その土地にあった古い胎土目積み段階の技術と合体して、胎土目やその段階の技法である鉄絵が描かれたりするわけです。つまり、胎土目積みと砂目積みの技術は並行します。ちなみに、こういった製品は武雄などでも珍しくありません。なので、南窯跡の場合も、砂目積み溝縁皿よりも胎土目積み製品が、古い層で出土するってことはありません。つまり、上限は、やはり1610年代ということになります。

 ということで、蛇ノ目釉剥ぎ製品の出土していない1期の話をしてたら、長くなってしまいました。蛇ノ目釉剥ぎ製品については、また次回お話しすることにしますね。(村)

  • 20260624写真

    写真:内野山北窯跡1期の製品

       『内野山北窯跡』佐賀県教育委員会 1996より転載


 


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