前回は、引き続き嬉野市の内野山窯跡についてお話ししているところでした。佐賀県教育委員会の発掘調査報告書では、1~5期に区分されており、嬉野市教育委員会の方でも、発掘調査の際には、原則的にこれに倣って見解が組み立てられています。
前回は1期の話をしましたが、有田では1610年代中頃に、磁器とほぼ同時に作られはじめる陶器の砂目積み溝縁皿が出土しており、有田では寛永14年(1637)の窯場の整理・統合まで陶器皿のメインの器形として作り続けられます。
内野山窯跡では1期は17世紀第2四半期とされ、つまり、1625年~50年ということですが、溝縁皿のこともありますので、上限は1610年代とされています。つまり、溝縁皿というものが誕生した1610年代中頃以降で、でも、内野山窯跡でも間髪を入れずに作られたと考えるよりも、多少タイムラグがありそうだという解釈でしょうね。そんで、有田の場合は、窯場の整理・統合という政治的な施策で、強制シャットダウンしてしまうわけですから、まあ、それよりも多少は後まで作り続けられたとして、17世紀第2四半期という時期に落ち着いたんだと思います。もちろん、17世紀後半とされる2期との兼ね合いも考慮の上でということですが…。
そんで、この1期でおもろいのは、やっぱ有田なんかのルールに則って、溝縁皿をはじめとする陶器には、見込み蛇ノ目釉剥ぎはしない。つまり、この時期に内野山では磁器は生産していませんので、必然的に、磁器に伴う技法であった蛇ノ目釉剥ぎの製品は皆無ってことになります。
そして2期です。この時期にも砂目積み溝縁皿はあるけど、少量なので、早期になくなってしまうものだろうとされています。つまり、1期との過渡期頃に作られてたってことですね。そんで、1期からあるものの、2期に爆発的に増えるのが銅緑釉製品です。皿の場合だと、内外面とも銅緑釉のタイプや、同じく内外面とも銅緑釉ですが、見込み蛇ノ目釉剥ぎするタイプ、それから、内面は銅緑釉ですが外面は透明釉で、見込み蛇ノ目釉剥ぎするタイプです。
内野山の銅緑釉皿と言えば、多くの方がイメージするのは内面銅緑釉で外面は透明釉のタイプだと思いますが、やはり、3期まで続くのは、そのタイプのみですので、最初はいろいろやってみたけど、結局、効率的量産のために一つに絞ったってことでしょうね。
で…、です。ここで注目していただきたいのは、陶器なのに見込み蛇ノ目釉剥ぎするようになったってことです。先ほどもお話ししたとおり、1期の段階では、蛇ノ目釉剥ぎのルール上は陶器には用いない技法であるため、内野山では使われていなかった技法です。
ただし、2期は17世紀後半とされているので、これが初期の磁器の影響なのかは、ちと脳ミソを働かせとく必要があります。というのは、1650年代頃になると、有田の磁器でも再び見込み蛇ノ目釉剥ぎの皿が復活するからです。
ということで、続けてお話ししときたいところですが、まだもう少し続きそうですので、本日はここまでにしときます。(村)
