今年4月のNo.416、つまりちょうど10回前ですね。この時から、東京大学構内遺跡の医学部附属病院入院棟A地点D面焼土として報告されている、天和2年(1682)の火災による、加賀藩邸内の長屋建物群に伴う瓦礫層の出土遺物から、下級武士さんが当時どんな陶磁器を使っていたのかについてお話しをはじめたところでした。でも、No.419くらいから皿類の見込み蛇ノ目釉剥ぎの技法が気になって、そっちの話をはじめたら、終わらなくなってしまいました。でも、前回何とか、もともと磁器の技法であった蛇ノ目釉剥ぎが、陶器の技法としても活用されるようになった経緯についてお話しを終えられたところでした。やっと元に戻れます…。
加賀藩邸内の長屋建物群では、藩主さんや上級武士さんに関わる建物の出土遺物に比べ、磁器よりも陶器の割合が高いって報告されてますよって話を以前してましたが、当然忘れましたよね。そうなんです。割合的には、陶器が多いのが特徴なんです。でも、これは当然ってか、特に17世紀だとまだまだ磁器の方はごっつ高価ですからね。
そこで、前回までお話ししてきた内容が関係してくるわけですよ。つまり、皿の場合だと、出土品の約8割が肥前陶磁、つまり、感覚的には、出土した皿中にチラホラ肥前以外の他産地の製品が混じるって感じでしょうかね~。そんで、その中の約4割が染付皿だそうですが、これについては、また後ほどお話しします。残りのうち、約2割が、前回までお話しした波佐見の青磁皿、そんで、約2.5割が嬉野市の内野山の銅緑釉の陶器皿だそうです。これも前にお話ししましたが、染付皿の中にも見込み蛇ノ目釉剥ぎの製品がありますので、蛇ノ目釉剥ぎ製品がおおむね半分程度を占めることになります。
内野山の銅緑釉陶器の場合は、唐津焼と呼ばれる通常の肥前陶器とはちと毛色が違っていて、可能性としては、磁器を摸したというか、その代替品として生産されたんではないですかねって話をしてました。つまり、波佐見の青磁皿を陶器で再現したのが内野山の銅緑釉皿であり、碗なんかも有田によくある内外面に青磁と透明釉を掛け分けた高台無釉碗みたいなもんの代わりって感じです。
波佐見の青磁皿も有田の掛け分け碗も、磁器としては、相対的に量産用の最下級品です。でも、下級武士さんたちにとっては、磁器はまだまだ高いな~ってことで、まあ、磁器じゃないけど、陶器の中では胎土も磁器に近くて精緻だし、器形も同じような感じだし、見た目もいくらか違うくらいだから、内野山の銅緑釉陶器の方で妥協しとくかってとこですかね~。
つまり、こういった肥前陶磁の中では相対的に下級なものが、下級武士さんたちの間で主に使われていた製品ってことです。そんで皿で最多の約4割を占めるという染付製品ですが、ならばこっちは高級品…?なんてことがあるわけないですが、でも思ったほど下級磁器がずらっと揃ってるわけじゃなくて、結構バラツキはあるんですよ。でも、長くなるので、これについてはまた次回ご紹介してみることにしますね。(村)