前回まで、加賀藩邸の長屋建物群の出土製品について記してました。でも、ぜんぜん終わんないので、本日もその話の続きです。
出土しているのは、天和2年(1682)の瓦礫層なわけですが、長屋に住んでたのは、平士の聞番さんとか、ちびっとの中級武士入門編クラスの人と、正式武士とは言えない足軽さん以下その他大勢の人たちです。
上級武士さんたちと違って、相対的には、磁器よりも陶器が多く使われているのが特徴だそうです。まあ、そうでしょうね。そんで、陶磁器で出土量の多いのは、碗、皿、鉢なんかってことですが、その比率は別に触れられていませんが、想像するには、皿が断トツ多いんじゃないですかね?
だって、鉢ってのは、どんぶり型もあるし、皿型に近いのもあっていろいろですが、まあ、もともとそんなメチャクチャ数の多いってほどのもんじゃないですからね。もっとも、遺跡で破片で出てくる場合は、もとがデカイですから、破片数自体は多めにはなりがちですけどね。その代わり、厚みもあるものが多いので、細片にはなりにくいので、そういう意味では、そんなもん数えたことはないですけど、大きさの割には破片点数は少ないかも?
で、碗ですが、前回だったか、有田磁器の場合には、17世紀後半には、意外と碗って作ってるところが少なくて、高級量産品の主産地である内山が主体ですって話をしました。ですから、今お話ししている下級武士さんちみたいなところでは、製品ランク上も磁器は少なくて、陶器の割合が高くなるのは当然と言えば当然です。
そんで、皿なんかと比べて、まあ割合は少ないでしょうねって理由として、そもそも用途の面があります。つーのは、現在は茶碗と言えば、ごはん食べる器ってのが、一番ポピュラーな用途だと思いますが、17世紀頃だと、ごはんとかには漆器を使うのがジョーシキで、陶磁器碗はお茶用と考えられているからです。もちろん何とか流みたいなちゃんとしたお茶じゃなくて、普段使いですよ。なので、ここでは下級武士さんちの話をしてますが、別に上級武士さんちの屋敷跡でも、後の時期ほど碗の割合は多くありません。そんで、17世紀末頃から、だんだん飯茶碗も使われるようになるので、碗の生産もググって伸びていくってことです。お茶用だけじゃ、そんなに数はいりませんからね。たとえば、この飯碗の例として分かりやすいのが、蓋付の碗とかですね。奈良茶碗とかって言われるやつとかね。蓋をひっくり返せば、漬物とかちょっとしたおかずを乗せる皿代わりって、実に合理的ですね〜。なので、17世紀に蓋付碗がないとは言いませんが、つーか、古九谷様式の祥瑞手の色絵碗なんかにすでにあったりもしますが、かなり例外的ですね。
つーことで、本日は、そもそも碗って皿ほど多くないはずって説明してたら、一歩も進まずに終わってしまいました。続きは次回ということで。(村)