前回は、加賀藩邸内の長屋建物群の出土製品の中でも染付小皿の関係で、嬉野市の不動山窯跡のお話しをしていたら、それで終わりになってしまいました。不動山窯跡は、1650年代に開窯した17世紀後半の窯場ってことでした。そんで、17世紀後半の有田じゃない他地域の窯場の成立についてお話ししている時に、たびたび取り上げることになるのが、1650年代中頃から60年代初頭頃にかけて断行された有田内山の窯業の再編です。それに伴い、内山だけじゃなくて、外山も含めて有田の窯業全体の大シャッフルが行われて、以後有田では、山による製品ランク別生産が行われるようになるってことでした。
そんで、この大改革の際に、内山と外山という区分ができますが、内山では上絵付け工程の分業化が図られて専門業者が集住する赤絵町ができるわけです。一方、外山の方は上絵付け工程は本焼き業者である窯焼きが引き続きできましたが、何しろ製品ランク別生産に移行したわけですから、最上級品の生産山となった南川原山を除けば、まだまだ付加価値の高い色絵は分不相応の製品になってしまったもんで、一斉に生産から撤退してしまうことになったわけです。
こうやって、有田の窯業の整理・整頓が図られたわけですが、その過程で、窯数も整理されます。1650年代前半頃までは、一つの窯場に複数の窯体が併存することも珍しくありませんでしたが、原則一つに絞られたりするわけです。まあ、窯体も大きくなりますので、たとえば、それまで2つの焼成室を使っていた窯焼きでも、1つで済むようになったってことはあるでしょうが。
それから、外山では色絵磁器の生産から撤退するわけですから、上絵付けの工程にとどまらず、色絵素地そのものもいらなくなるわけですから、その分は生産が削られることになりますしね。
それに、従来は一つの窯場の中で、その窯なりに、上・中・下級品を一とおり全部作っていたわけですが、製品ランク別の生産に変わったことで、生産効率も上がったはずですので、同じ数量を生産するために必要な人員なども少なくて済むってことになります。
つーことで、たぶんそれなりに陶工と呼ばれる種類の人たちがあぶれたんじゃないでしょうかね。そんで、そういう人たちが、いや、中には高い志を持ってって人もいたかもしれませんが、とりあえず、そういう人たちが、前回示したような有田の外を目指したってことです。
有田の場合、寛永14年(1637)の窯場の整理・統合によって、はじめて藩の窯業への介入がはじまります。まあ、最初は藩ってよりも、例の山本神右衛門重澄さんですけどね。その後、山請けなど、藩が売り方とかにも介入してくるなど、段々締め付けが厳しくなるわけです。そんで、正保4年(1647)に皿山代官が設置されることで、The End。もう後は、ギューギューですよ。そんで、その仕上げが、1650年代中頃からの、窯業の大再編なわけですが、これが、違法ではなく陶工の移動という形で技術が有田外に出る、最後のチャンスだったような。なので、この後はまっとうな方法で、技術が外部に移転するってことは、ほとんどなくなるわけです。だから、不思議なくらい(?)どこの新設の産地でも、成立時期はピタッと同じってことになるわけです。まあ、どこもなかなか生き残れなくて、結果としては、廃窯時期も似たり寄ったりではあるんですけどね。
つーことで、本日は、有田の外に技術が移転した背景について、チビッとお話ししてみました。おしまい。(村)